ヨシタケシンスケ展かもしれない

2023年7月2日

意表を突いたタイトルの展覧会が、いま福岡で開催されている。昨年から日本各地で開かれているものだそうで、やっと福岡もその波に追いついたというところであろう。
 
もしヨシタケシンスケさんの本をご存じないとしたら、人生の何%か、損をしていることになるだろう、とまで言いたいと思う。その絵や言葉に触れたら、きっと自分では絶対に見えてこないものが見えてくる体験をするだろう。けれどもそれは、かつて子どもの頃に自分が確かに見ていたもの、感じていたものでもあるはずだ。大人なのに、子どもの眼差しをもっている人、そんな不思議な人であるような気がする。
 
絵本がとみに有名であるが、絵本作家として確立したのはこの10年ほどなのだそうだ。そもそも造形の方面の人だったが、今回の「ヨシタケシンスケ展かもしれない」では、その造形作品もいくらか展示されており、なんともいえない味わいを感じた。それは、どこかマニアックで、そこらの若者のこだわりの趣味というようでもあったからである。  
小さな紙に書かれたメモやスケッチが、壁一面に展示されていた。アイディアノートというようなもので、かつて会社で隠れて描いていたために、小さく描く癖がついてしまったのだ、とも言っていた。そのためか、絵本などの各種原稿が、私が想定していた以上に小さく、その小さいことが、ひじょうに印象的に感じた。
 
漫画では普通、大きな原画を小さく印刷して、線を美しくする。しかしむしろ拡大して絵本にする――逆転の発想のようだが、どうやら性分であるために違いない。また、色を自分ではつけないということも、私は知らなかった。コピック(カラーペン)を揃えて色をつけてみたところ、編集者に、色はほかの人につけてもらいましょう、とダメ出しされたのだという。「ヨシタケシンスケ展かもしれない」には、そのためお蔵入りとなったコピックのフル装備までが展示されてあった。
 
ところでこの「ヨシタケシンスケ展かもしれない」という奇妙なタイトルについても、ちゃんと説明がしてあった。もちろんご存じの人はお分かりのように、デビュー作『りんごかもしれない』のタイトルをもじってのことである。しかし、そこにはもっと深い気持ちが含まれているはずだ。それは本人も書いているが、それはここでは内緒としておこう。私が受け取った姿で取り扱うことにする。
 
これは「ヨシタケシンスケ展」だ、という断定は、どこか強すぎる。決めつけ感が強いのだ。だがこの展覧会は、その細かな計画と企画のメモも公開されている。目録として売られていた中に、ヨシタケシンスケさんの手の内が全部明かされている。こんな展覧会は経験がない。子どもたちが妙な椅子に座ったり天国の道を歩いたり、つまんない顔をしろだの、顔がリンゴになるだの、入場者が参加して一緒に作り上げるような展示が盛りだくさんなのである。会場内のプラカード的なキャラクターの絵にも、会場に元カレがいるかもしれないとか、係員がこちょこちょするかもとか、妙なことばかり書かれていて笑えるが、それもその考えで説明できるような気がする。
 
展覧会かもしれないけれども、そうじゃないよ。これはあなたたちが確かにここにいてこそ成り立つ機会なんだ。何かを客観的に見物する所じゃないんだ。あなたもこの展覧会に参加している。参加しているからこそ、この場この時が成り立っている。展覧会かもしれないが、普通の眺めるものとは違うんじゃないかな。
 
聖書のことを私は思い起こす。聖書もまた、見物するためのものではない。そこに参加しなければ命は与えられない。また、聖書から他人事のように拾い出した言葉を並べただけの説教を、これを聞けばいいだろう、と掲げるだけの時間は空しい。見物する価値もないし、誰も参加などしていない。「礼拝かもしれない」ものについては、省みる必要があるはずだ。



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