よい聴き手

2023年6月28日

「説教者は、よい聴き手によって支えられる」――加藤常昭氏の『自伝的説教論』に出てきた一文である。加藤氏は、説教者の立場でこれを書いている。自分の生い立ち、特に説教者として立てられることと、立てられてからのことが、克明に書かれている。
 
「説教者は、よい聴き手によって支えられる」――まさに、その通りであると私も思う。私は聴き手としての立場でこれを書いている。そしてこのことは、「よい聴き手のいない説教者は、支えられていない」ということを意味するようにも見える。
 
この「よい聴き手」がいなければ、お山の大将になってしまう、という程度なら、まだよいのかもしれない。自分の間違いも分からず、どんどん逸れていってしまう可能性があるのだ。この「間違い」には、いろいろな意味が含まれている。そもそも説教にすらなっていない、という場合もあれば、聖書についての明らかな虚偽を本当だと思い込んで熱心に話すような場合もあるだろう。
 
後者のような誤りの場合、「よい聴き手」がいれば、きっと指摘をしてくれるであろう。人間には間違いはあるものだ。私もたくさんある。後に自ら気づいて恥じる場合もある。そんな私が、説教の聴き手である場合、できればそうした「よい聴き手」になりたいと願っている。
 
しかし、そうした指摘をなんとも思わない人もいる。無視する人もいるし、自分は間違っていない、との一点張りの人もいる。表面上「そうでしたか」と笑顔で受け答えしておいて、全く気にせず忘れてしまうような人もいる。きっと「支えられる」ことが嫌なのだろう。こうなると、説教どころではなくて、その人の人間性に問題がある場合もあるだろう。
 
礼拝説教は、信徒に向けて語られるのが基本である。聖書のことをよく知らない人にとり、理解が難しい事柄が語られることもある。聖書の知識を前提としないとうまく聞けない場合もあるだろう。そうした人への配慮を含んだ説教者もいるが、よほど初めての人のための話という形を表に出すものでなければ、すべてを分かりやすく話すというのは難しいだろう。
 
だが、その信徒にとってですら難しい話というのも、ないわけではない。話し方にも問題があるが、実に難しい神学議論を展開するような話を「説教」として語るのである。まるで論文を少し易しい言葉で説明したようなものだと、信徒としてその話の内容の理解も厳しいことが多いであろう。さて、信徒はこのときどうするだろうか。
 
失礼な言い方だが、仏教の葬儀などで唱えられる「経」は、しばしば何を言っているのかが分からないものである。宗派によっては、かなり口語的に伝わりやすい言葉にしているところもあるが、たいていは、何を言っているか分からないから「ありがたい」という雰囲気があるような気がする。
 
かの難解な説教もそうである。分からないけど、何か「ありがたい」。だから、「いいお話でした」「お話をありがとうございます」とにこにこ挨拶があって、終了となる。話し手は、気を好くして、次からも同様に「難しい話」を繰り返す。信徒たちは、ますます「ありがたい」気持ちになってゆく。何の意味だか分からないけれど、難しい話を聞いたぞ、と。
 
自分が「よい聴き手」であるなどと思い上がることはしない。だが、「説教」は神からの思いを受けた説教者が、その場その時に相応しく物語り、神の言葉を出来事にしてゆく営みであること、そしてそれを魂と全身で受け止めて受け容れる会衆がそこにいて何らかの応答をしてゆくものであることを、私は信じて疑わない。その意味でも、「説教」は、説教者と聴き手とが共に作り上げるものであり、またそれが、神を礼拝することであるのだ、と理解している。
 
「説教者は、よい聴き手によって支えられる」――聴き手もまた、その説教を通じて、命を受ける。「よい」は要らないかもしれない。「よい」がなければ、私もその「聴き手」としてそこにいます、と声を挙げたい。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります