難しい「自由」の概念に挑む

2023年6月26日

「真理はあなたがたを自由にする」――尊く扱いたい聖書の言葉だが、これを人間の残酷さの極限の場で用いたことを、私たちは忘れることができない。「労働は自由にする」、つまり「働けば自由になれるぞ」という言葉。元は小説のタイトルだったという。労働環境にまつわる標語でもあったというが、ナチスが強制収容所に掲げたことで、とてつもない悪意を含ませることとなった。
 
本日の説教は、この言葉を軸に展開した。教会としては、当初予定されていた説教ではない。予定の説教者の急病のため、若い神学生が担当することとなった。そのため、いつものレスポンスとは事情が異なる。私が偉そうな口を利くのはお門違いではあるが、その若い人材を育てる思いも含めて、綴ってみようと思う。
 
途中で、自分の経験を語った。両親がクリスチャンだった。日曜日は教会に行かなければならない。mustである。しかし、小さな子どもである頃は従順そのものだった。小学生のときにスポーツチームに入った。当然だが、それは日曜日に試合が組まれることが多かった。午後からは参加できたが、午前中は教会がある。友だちからも、いろいろ言われる。はぐらかすにも限度がある。あるとき、親の前で泣いたという。どうして自分はこんなに不自由なんだ、と。
 
それでも親に従うしかなかったわけだが、いつか大人になり自由になったら、こんな教会になど行かなくてよくなるのだ、と思った。これが中高生になると、その自由がいくらか与えられることになる。ただ、遊び回っていたそのことが、欲しかった自由というものなのか、という疑念も覚えたのだという。
 
絵に描いたような、クリスチャン両親の子の「あるある」だとも言える。そこからどのように教会に戻ってきたのか、それを聞きたかったが、これは証しの場ではないためか、その話はなかった。実際、多くの「クリスチャンの親たち」は、それが知りたかったのではないだろうか。私も知りたい。尤も、その人のその話は、多くの教会員には、既知のことであったのかもしれないけれども。
 
真面目な青年であることが伝わってきた。こうした問題意識をもち、それを超えてきたからこそ、いまこうして神学を学んでいるわけである。また、説教も、「自由」という問題について、ぶれることのない眼差しを送り続け、伝え続けてきた。決してそれを他人事として扱うようなことはなく、自分の問題として背負い、考えたことは頼もしかった。大いに期待したい。当たり前のようなことだと言えようが、それすら、できない人にはできないのだ。
 
「自由」を語るときには、やはりルターの『キリスト者の自由』を避けることはできまい。それを自身の言葉で語るために、対義語のように「奴隷(状態)」を持ち出して、「罪の奴隷」即ち「欲望の奴隷」という言い方を表に出した。説教ではこれを貫くことで、「自由」について、それへの否定的な角度から考えていくようであった。
 
日曜日の午前中を制約されることが不自由だと覚えた、自身の子ども時代の思い。それを抜け出したつもりが、実は「欲望の奴隷」になっているだけだった。そのことに気づいたことが、つまりは教会に戻る、あるいは信仰を与えられる、もしくは救われる、そうしたことにつながっていくのだろうと思う。

「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)の間には、訳されていないが「だから」がある、という話だったが、「そして」程度の語をそこまで強調すべきなのかどうか、私は疑問である。むしろ、真理を「知る」とはどういうことなのか、そこを深めるとどうなるか、私は聞きたいと思った。話はそこから「真理」の方に流れ、「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)の箇所に触れた後、またすぐに「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか」(8:33)と尋ねたユダヤ人たちのシチュエーションに戻ったのであった。しかし、「真理」なるイエスが私たちを自由にする、というばかりでなく、その真理を「知る」からこそ、そうなるのだというところを強調したほうがよかったのではないだろうか。もちろん、「知る」とはどういうことか、すでに説明した後のことである。そのほうが、「だから」と理解した説教者の思いと重なると思うのである。
 
しかしともかく「自由」という概念は、厄介である。これを本気で問うとなると、たいへんな研究になってしまう。私はカントの自由の概念の違いを明らかにするだけで、修士論文が終わった。否、そんなチンケな論文では、明らかになどできなかった。説教者は、英語のfreedomとlibertyについて、よくウェブサイトにあるような違いの説明をさらりと言っただけであった。ヨーロッパ各地での考えの流れを受けた前者と、ラテン語由来の後者には、それなりの相違があるが、古来の概念と現代の概念とでも、社会制度の変化もあり、かなりの相違が生まれる。なかなか単純に説明できることではない。
 
それに先立って、キェルケゴールが、不安を「自由の目眩」だと呼んだことも引用された。いまの若者は、「自由を持て余す」が故に、きっぱりと選ぶことができない苦悩がある、というようなところは、なかなか言葉にすることのできない若い世代の立場を代弁するものとして、関心をもって聞いた。但し、それはキェルケゴールの考えていたこととは違う。それは無を覚えるものであり、原罪の問題と結びつく。神との関係の回復により克服するとする。実存哲学の発生でもあるし、原罪や神という問題から離れることによりニーチェからハイデガーに向かって追究され、人間の根源的な感情と見なされていくことになる。
 
日本語として「自由」なる語が生まれた背景についても最初に触れていたが、中国の言葉を日本において採用するときに、様々な問題が起こる。当然、西欧語と中国語あるいは日本語との間には、外延も内包も異なるであろうからである。こうしたデリケートな問題については、少しばかり調べても、「こうなのです」と割り切って言ってしまうことは、できれば控えたほうがよいのではないだろうか。自由の目眩としての不安ひとつだけで、1時間語っても語り終えることができないような、深みと広さとがあるのである。
 
この聖書箇所には「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる」(8:35)という、分かりにくい言葉がある。ここで「欲望の奴隷」という、本説教のテーマの一つが大いに表に出てくるはずである。人間は、自分が自由に何でもできるような気持ちになって清々しい思いをもつことがあるが、実はそれは、何ものかに制約されたままに操作されているようなものである。これを説教者は「欲望の奴隷」と呼んでいた。
 
カントの道徳的自由論は、そのような性質を「傾向性」と呼んだ。人間は、自然界の原因結果の連鎖の中で、自然法則に従う性質をひとつもっている。欲しいものがあれば、それを求めるために行動する、という具合である。それはAが起こればBになるというような、自然法則で説明できる流れの中に置かれた状態である。しかし、必然的にそうなるだろうという自然法則の支配を抜け出す道がある。たとえ自然的にはこちらに流れるだろう、というような情況で、いやそれでも自分は自分の理性に従ってこちらを選ぶ、というような決断である。人間は理性的存在としてこうすべきだから、自然法則の因果律による支配を否む。私自身の中から、新たな自然行為を生み出すことができる。ここに道徳的自由がある、というのである。
 
奴隷は、結局自分の意志で自分の立場を決めることができない。売られればそれまでである。自身の所有権が自身にはないのだ。欲望に支配されているというのは、そういうことである。金に心が支配されていれば、金につられて動かされるのである。自分の立つところが他所にあれば、金がちらつこうが動くまい。しかし金の奴隷であれば、金という餌に釣られて動かされるであろう。
 
神の子イエスは違う。岩である。世の風に動かされるようなことはない。そのイエスが、あなたたちに自由を与えるというからには、あなたたちが与えられる恵みは、本当に自由なのだ。
 
説教者は、最後にはしきりに「本当の自由」と繰り返していた。それを人々に伝え、教会に導こうという方向に走って行った。なぜなら、それを伝えられる場所が教会なのであるから、と。しかし、「本当の神様」という教会学校でよく使うような言葉は、一考すべきであろう。少なくとも本説教でも、「自由」という概念の周りを巡ることはしていたけれども、「本当の自由」とは何であるのか、明確には語っていなかったからである。たとえば聖書を信じていない人がこれを聞いたとしたら、「本当の自由」という言葉で教会員が思い描いていることは、その人には伝わらなかっただろう。あるいはむしろ、キリスト教だけが「本当」を知っているような言い方をするものだな、という悪い印象をもつかもしれない。宗教が、自分たちだけが「本当」を知っていて、信じない者にはそれが分からないのだ、という態度をしばしばとることは、他山の石としなければならない。自分がその「他山」であるかもしれない、と私も自らを戒めたい。
 
特に長くないこの説教の中で、若い説教者は、あまりにたくさんのことを言おうとしたような気がする。それまで何も触れていなかったことを突然最後に付け加えるのは、作文を書き慣れない中学生によくある現象である。最後に伝道の話で結んだのは、あまりに唐突で、それまで語ってきたことは何だったのか、という気持ちにさせられる。罪からの自由、制約からの解放、そうした路線だけでよかったように思う。――あなたが縛られていることは何ですか。社会的に辛い立場で、逃れられないこともあるでしょう。病気が不安であったり、命の限りを見つめなければならなかったりする人もいるかもしれません。確かに苦しい思いが私たちにはあります。けれども、その辛さや悲しみに、イエスは寄り添ってくれることを信じます。十字架に苦しんだ方だからこそ、何か分かってくださることを信じます。あなたがほんの少しでも、囚われている自分のその絆しから解放されることができる、イエスはそうする力をお持ちだ、ということに気づいて、いまから新たな信仰の道を歩むことができるように、と私は力の限り祈り、そう信じています。聖書はそう告げています――そんなメッセージを、私なら伝えただろうと思う。それは、多分に、私がそう言ってほしかったから、というのが実情であるかもしれない。私はそのようにいま一度励まされて、この礼拝を与えられたことに感謝した。
 
ここまで偉そうな言い方をした私だから、さらに最後に、余計なことを付け加えておこうと思う。
 
まず、語り方である。原稿を見ないで語れなどという先生も以前いたが、現実にそこまでは難しい。ただ、原稿を「読む」と、それは自分の言葉ではなくなる。もちろん説教は、神の言葉を取り次ぐことであり、神の言葉が出来事となる場である。しかしその言葉は、説教者を通じて顕わになる言葉である。しかし「読む」と、説教者を通じていま生まれる言葉ではなくなる可能性が強い。原稿を「見る」のはよい。見て、筋道を間違えないようにする。言わなければならない点を忘れないようにする。そして見た上で、自分の魂の中でこの数日巡り巡らせてきた出来事を、いまその場において反芻するかのようにして、噛み砕き、そして語るのだ。もしかすると、いま壇上の自分が、初めて目が開かれて気づかされることがあるかもしれない。どうぞそれも語ればよい。その朝与えられた、神からのプレゼントである。その場に必要だから、神が与えた知恵である。ともかく、説教は「読む」ものではない。「語る」ものである。そうすると、「読む」ときにありがちな、抑揚のない、メリハリのない、一本調子の口調ではなくなるはずである。また、原稿に目を落とす時間が80%以上になるようなこともなく、会衆を80%以上見る視線を以て、語ることができるだろう。そうするとまた、会衆の求めている様子も分かるし、会衆がどんな魂の状態であるかも知ることができるだろう。そうして、説教者が語ることは会衆に作用され、また語ることが会衆を作用し、互いに神からの言葉を受けていくこととなる。説教は、説教者と会衆とが、共に作り上げるようになるのである。
 
もうひとつ。これは本人も気づいていない癖かもしれないが、重要なので触れておく。それは、講壇の開かれた聖書の上に肘から先の腕を置き、掌は聖書を抱えるかのような構え方をしていたことである。講壇の聖書は、そこから神が語るための重要なアイテムである。神の顕現の象徴と言ってもよい。その聖書の上に肘を置くような態度は、見ている側からは非常に不遜に見えることがある。まして、自分の原稿をその開かれた聖書の上に載せて読むとなると、益々である。それは、自分の説教原稿の方が、聖書よりも上にあるという傲慢な姿勢を露骨に示すことになりかねない。聖書から神が語ろうとすることを、自分の原稿が塞いでしまい、さあこの原稿の言葉をこそ聞け、というような姿勢である。原稿を置く場所が狭かったのではないか、とも思う。実際、そうした語り方をする人は多い。だが、それでも、こうしたことは、会衆からはっきり見えることである故、やってはいけないことではないだろうか。そういう信仰の持ち主なのだ、と見せてしまうからである。ほかに記した私の的外れな考えは気になさらなくてもよいが、この最後のことだけは、ぜひご一考願いたい。



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