見えない・聞こえない

2023年6月22日

見えない・聞こえない――そこに呪いのようなものが描かれる。サムエル下5:6-8である。
 
6:王とその部下の者がエルサレムにやって来て、その地の住民エブス人を攻めようとした。エブス人はダビデが町に攻め入ることはできないと思い、ダビデに言った。「ここには来られまい。目の見えない者、足の不自由な者でも、お前を追い払うことは容易だ。」
7:だが、ダビデはシオンの要害を攻め落とした。これがダビデの町である。
8:その日、ダビデは言った。「エブス人を討とうとする者は誰でも、水汲みのトンネルを抜けて町に入り、このダビデを憎むという足の不自由な者、目の見えない者を討て。」このため、目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない、と言われるようになった。
 
時代的な制限もあるだろう。人権を尊重したり平等を理念としたりする私たちの意識とはまた違う。かといって私たち現代人もそれを守れているわけではないし、それとは異なる価値観を隠しきれないでいるところもある。
 
聖書を弁護するつもりはない。私などが弁護しなくても、聖書はひとに何かを気づかせる力をもつ、命の言葉だと信じている。イザヤ書35:1-10である。
 
1:荒れ野と乾いた地は喜び/砂漠は歓喜の声を上げ/野ばらのように花開く。
2:花は咲き溢れ/大いに喜びの歌声を上げる。/レバノンの栄光と/カルメルとシャロンの輝きが砂漠に与えられる。/人々は主の栄光と私たちの神の輝きを見る。
3:弱った手を強くし/萎えた膝を確かにせよ。
4:心を騒がせている者たちに言いなさい。/「強くあれ、恐れるな。/見よ、あなたがたの神を。/報復が、神の報いが来る。/神は来られ、あなたがたを救う。」
5:その時、見えない人の目は開けられ/聞こえない人の耳は開かれる。
6:その時、歩けない人は鹿のように跳びはね/口の利けない人の舌は歓声を上げる。/荒れ野に水が/砂漠にも流れが湧き出る。
7:熱した砂地は池となり/干上がった土地は水の湧く所となる。/ジャッカルが伏していた所は/葦やパピルスが茂る所となる。
8:そこには大路が敷かれ/その道は聖なる道と呼ばれる。/汚れた者がそこを通ることはない。/それは、その道を行く者たちのものであり/愚かな者が迷い込むことはない。
9:そこに獅子はおらず/飢えた獣は上がって来ず/これを見かけることもない。/贖われた者たちだけがそこを歩む。
10:主に贖い出された者たちが帰って来る。/歓声を上げながらシオンに入る。/その頭上にとこしえの喜びを戴きつつ。/喜びと楽しみが彼らに追いつき/悲しみと呻きは逃げ去る。
 
文字通りに受け取ることも大切だ。だが、見えない・聞こえない・歩けない・口の利けない、それはたとえば私もそうなのだ、という捉え方をすることもできるはずである。見えていない。見えないものに目を注ぐというパウロの言葉が言い当てている。見えていないのだ。神の言葉が聞こえないのだ。自分では何も歩くことができないのだ。言わねばならないことがちっとも言えないのだ。
 
……と、これがなんだか尤もらしいメッセージのように思えていたのが、昨日までの私であった。
 
それで、実際に目が見えない人、聞こえない人が慰められるだろうか。見える者、聞こえる者が少しばかり謙虚な振りをしているだけのようではないか。だって本当は視覚も聴覚もあるのだもの。贅沢な、高みに立った貴族の仮定のようなものではないか。当事者とは違い、私自身は現に見えているし、聞こえているくせに、そんなことを口にして善人ぶるというのは、最低の態度である。マタイ15:29-31と、同じくマタイの21:12-14を見て戴こう。
 
29:イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行き、それから、山に登って座っておられた。
30:大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、手の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足元に置いたので、イエスはこれらの人々を癒やされた。
31:群衆は、口の利けない人がものを言い、手の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を崇めた。
 
12:それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを覆された。
13:そして言われた。「こう書いてある。/『私の家は、祈りの家と呼ばれる。』/ところが、あなたがたは/それを強盗の巣にしている。」
14:境内では、目の見えない人や足の不自由な人たちが御もとに来たので、イエスは彼らを癒やされた。
 
イエスが目の見えない人の目を見えるようにし、聞こえない人の耳を聞こえるようにしたという具体的な記事はほかにもある。それは今の時代のひとに慰めになるのだろうか。
 
旧約のダビデの呪いは、イザヤの預言で希望へと結びつけられている。だが見えない人は依然として見えない、聞こえない人は依然として聞こえない、その中でそれが果たして希望と言えるのか。
 
だが、イエスは違う。何かが違う。イエスの言葉、イエスの業、それを信じるならば、イエスが、ダビデの呪いを解いていることに、ふと気づくのだ。硬く縛られたその結び目を、イエスが解きほぐしてゆく。それが「癒やした」にこめられているように私には感じられた。単に視覚や聴覚を問題にしているのではなく、「癒やした」のである。心にのしかかる重いものを取り払うことができるのだ。それを「癒やした」の言葉は伝えようとしているのではないか。
 
イエスの言葉と業は、もっともっと深い味わいを隠しているように思う。私たちが、まだ気づいていないだけで。きっと、それが、聖書への信頼というものを表しているのだ、と私はいま思っている。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります