教会と子どもたち(2)

2023年6月16日

牧師夫人と呼ばれる立場の人がいる。男性牧師の妻である。昔はステレオタイプにそういう人がいて、牧師夫人という呼び方が当たり前のように使われていた。いまでも当たり前ではないか、と思う人がいるかもしれない。特に、女性を牧師としてはならないとするグループからすれば、半ば常識であろう。
 
牧師には給与が出る。謝礼と呼ぼうと、給与である。教会への献金の中から一定の額が与えられる。最近は信徒が減り、また高齢化も伴って、献金額の減少が著しい。副業収入の必要な牧師も多い。
 
当然、牧師夫人は無給である。無給であるが、無休である。教会のために働くのは当然視されている。説教はしないかもしれないが、もしかすると牧師よりも多く働いているかもしれない。
 
教会には、比較的女性が多い。しかし役員は殆ど男性という場合が殆どであるともいう。女性たちの中に男性牧師が入るよりは、牧師夫人が入るほうがスムーズにいく。女性たちの声を集めるために、牧師夫人は大活躍する。さらに、悩み相談としても必要だと思われる。
 
その牧師夫人は、子どもが生まれれば育児をも担う。子どもが小さなときには特に、幼稚園などで「母の会」のようなものに関わる。これも何故「母」なのか、それも課題であるが、ともかく幼稚園での親のつながりということにも、牧師夫人は活躍しなければならない。ただ、そのつながりは、その子のお友だち関係を中心にして、教会に導くひとつの道となることがある。
 
クリスマスとなると、お友だちもそうだが、保護者も、これを機会に教会でのクリスマスを体験したい、というムードが流れる。あのお母さんは教会の人だよ、これはいいチャンスだわ、とばかりに、グループ皆で、教会のクリスマスに参加することになる。そう、子どものためのクリスマス会があるのよ、という誘いで、決まりである。
 
そういう社交的な牧師夫人でなければこのようなことはないかもしれないが、京都の教会には実に明るい牧師夫人がいた。否、この言い方はよくない。神学校を出ている伝道者としての立場もあったから、こうした交わりもすべて伝道の一環であった。実に頼れる存在である。
 
さて、子どもたちのためのクリスマス会とはいうが、もちろんそこは教会の礼拝のひとつである。でも、子どもたちのための集いである。お土産にお菓子を渡すというのが、昔から常識であった。
 
ただ、教訓を得ていたのだという。お菓子を無料で配付したいのはやまやまだが、無料ではだめなのだというのだ。100円くらいでもいい、参加費をとることが大切なのだ。そういうのは教会の趣旨に反する、などという意見もあるだろうが、参加費は、子どもたちの保護者から要請するものなのだそうだ。
 
そのほうが、気兼ねなくお菓子を受け取ることができる。教会のクリスマスに参加するという経験の望みも満足できるというのである。妙に借りを作らない文化のなせる業かもしれないが、他方でそれは、「本当のクリスマス」を知ることができるからでもある。
 
「本当のクリスマス」などというと、教会が誘うポスターに掲げられるベタなフレーズのようである。だが、実は体験してみたい人は少なくないらしい。機会があればそういうのにも参加したい。ただ、足を踏み入れるのには勇気がいる。そこへいくと、子どもが喜ぶパーティか何かの延長の中で、親もついていって参加するというのは、実に都合が好い。
 
近代日本でキリスト教を信じ、伝えた先人たちが、これからの時代のために、とミッション系の学校を建ててきた。大学だと1割程度のミッション系の学校があるのだともいう。宗教系の中では、4分の3に届きそうなくらいがキリスト教系であるとも聞く。尤も、いまは「キリスト教主義」程度の意義であって、伝道活動をメインにすることは難しいともいう。教員がクリスチャンであることも、むしろ稀であるとも聞く。
 
キリスト教主義の学校は、信徒でない人々にも時に人気である。家がガチガチの仏教であるなら、あるいはキリスト教は外国の宗教で近づきたくないのなら、どうして子どもをわざわざミッション系の学校に通わせるだろうか。そこで聖書が教えられたり、礼拝儀式への参加が半強制のようであったり、普通の教会に礼拝レポートのために行かせられたりするのに、どうしてだろう。
 
「本当のクリスマス」に対する何らかの魅力を、幼稚園の保護者たちは覚えることがあるのは確かである。子どもたちのためには、教会は「本当の教会」にならなければならないのではないだろうか。なあなあやずるずるで、世間の風潮に流されている場合ではない。
 
無知と無責任とからか、すっかり緩んで感染対策をしなくなったこともあり、感染者が再び増加し続けているコロナウィルス感染症の中でも、流されていないか、点検してみるとよい。そもそもそうしたことから医療従事者がどれほど労苦を強いられているか、などと言っても、それについて殆ど無関心な様子をわざわざSNSで宣伝していた教会もあったから、政府のお墨付きが付いたことを今喜んで、何をいまさら、などとバカにされるかもしれない。けれども、世間がどうあろうと、「本物」であり続けるのが、教会の教会たる所以ではなかったのだろうか。新約聖書には、そのようなことが書いてあるのではなかっただろうか。



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