教会と子どもたち(1)

2023年6月14日

教会に子どもたちが来る、それだけでこちらの心が軽くなる。明るくなれる。そのような経験を、近ごろの教会では、もしかすると忘れてしまっていやしないだろうか。否、私が忘れているのだ。以前のことを思い起こすと、切なくなる。
 
もちろん、クリスチャンの親に連れられて教会に来ているという子どもたちがいる。それが割合としては最も多いだろうと思われる。
 
教会学校がまずあって、その後大人の礼拝の間、子どもたちはひとりで家に帰るわけにもゆかず、礼拝に参加しておとなしく絵を描いているか、あるいはナースリー制度があって、別室で遊んでいるか、そういう日曜日を送っている場合もあった。
 
親も朝早くから教会に来る。子どももあまり意味がなく教会に残っている。このような事態を避ける方法はないか。それを解決するのが、家族揃って礼拝、という理念だという考え方を表に出した。10:30の礼拝に子どもたちも参加する。プログラムに参加する。いわゆる礼拝説教の時間になると、子どもたちは別室に行く。遊ぶのではない。教会学校教師がそこで子どもの礼拝を行うのだ。
 
言い出しっぺとして、基本的に私がそれを担当した。礼拝形式をとる。ただ、お話そのものはそう長くはしない。そして、それを振り返るためのワーク作業や、遊びの企画を考えた。聖句を書くほかは、クイズや課題が与えられる。パズルや折り紙、ブンブンゴマのような工作を考えるなど、毎週盛りだくさんであった。最後の祝祷のときにまた会堂に戻る、という形にしたこともあった。こうしたことは、複数の教会で実践できた。
 
教師は礼拝説教を聞くことができない。それでもよしとしたこともあったし、録音をしてもらっていたこともあった。今のようにウェブ関係でそうしたことができなかった時代だったのである。
 
信徒の家の子がその中心だった。我が子もそうやって教育した。今、もしかすると「宗教2世」問題として、こうしたこともしにくくなっている場合がないだろうかと懸念する。子どもたちの意識も、また変わっていくのかもしれない。
 
時に、通りがかった子どもたちが入ってくることもあった。ある小学生の男の子は、真面目だった。熱心にノートをとって、はきはき返事をして帰って行った。但し、二度と姿を現すことはなかった。
 
教会の近所の家の人が、小学生の姉妹を教会に毎週送ってくれたこともあった。信仰のある家庭ではないのだが、なんでも躾のためによろしく、というような感じで、何年間も二人は日曜日の朝、通い続けた。
 
これらの例は福岡においてであるが、京都の母教会では、学生たちで、礼拝の午後に、近くの公園に出かけて行くこともあった。ギター片手に、公園にいる子どもたちを招く。聖書のお話をしたり、一緒に遊んだりもした。
 
「お話分かった?」と優しく尋ねると、まだ小さかったあおいちゃんが、「わかんない」と答えるのが可愛かった。それでも、毎週そこに行くと、その子がよく現れて、私たちのところに来るのだった。もう、ママになっているかもしれないが、果たして少しでも覚えているだろうか。
 
京都の教会では、牧師が説教の中でひとの証しを紹介することがあった。その場にいないから牧師が語るのだが、何十年ぶりかに教会に来て信じた人が、実は小さいときに教会学校に行ったことがあった、という話を何度聞いただろう。そのことを覚えていることが、大人になって教会に行くきっかけとなり、また足を踏み入れる力になったのだ。確かに、一度も教会に行ったことがない人は、教会に入ることをためらうものだ。私がそうだった。教会学校に触れたことは、何かの導きになる可能性があると言えるかもしれない。
 
水の上にパンを投げよ。そう、投げ続けた。それがどうなったか、私たちは知る由もない。ただ投げ続けただけで、誰も救いにつながらなかったかもしれないけれども、それでも、こうして、また新たにそれを投げる人へと話をすることはできる。
 
少子化だから仕方がない。そんなことを口にする人がいる。違う。そんな言い訳をしてはならないと思う。私たちは商売をしているのではないのだ。子どもはいる。教会の近くに小学校があれば、そこに何百人と小学生が通っている。中学生もいるし、高校生もいる。学校がもしも近くにあれば、その1%が教会に来れば、何十人と子どもたちが来ることになる。
 
1%というのは、日本にいるクリスチャンの割合だとして、昔から言われていたことである。宗教団体の人数など、合計すれば日本の総人口を遙かに上回るのであるから、どういう数え方をしているか知れないのだが、子どもたちの中にも、その数字を適用すればよいのである。子どもがいないはずはない。よほどの過疎の村や子どものいない小さな島などでなければ、子どもはきっといる。
 
マケドニアに来て助けてください、という幻をパウロは見て、出かけて行った。世の中が信じられないような社会で、人間関係に苦しんでいるような子どもには、聖書の福音は光になるはずではないか。
 
孤児を引き取って育てているご夫妻がいた。教会学校で、その子と一緒に賛美をした。たくさんの聖書の話を聞いてもらった。私が投げたものは、ただのパンではない。それは命のパンだ。パンでなければ、種だ。いつかどこかで芽を出すことのできる、生きた種だ。壁にぶつかり、思い悩んだとき、あるいは自分の姿を悲しんだとき、その種が芽を出し、根を張ることを、そっと願っている。



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