神の子をこそ礼拝して生きる日常

2023年6月12日

盛りだくさんの礼拝メッセージだった。ここに再現するわけにはゆかない。黙示録のシリーズだが、七つの教会への手紙のうち、四つ目のティアティラ教会の天使に送るべきものになる。それは「キアスムス」と呼ばれる交差配列法の中央にあたる。ユダヤの祭具のひとつであるメノラーという燭台の形に由来すると言われるが、最重要な点を中央とし、左右に分かれて出る枝の如く、前後が対称形に対応しているものとする描写方法が一般的であるのだ。そうした説明も加えつつ、この手紙には何か重要な意味があるのではないか、という期待をさせる。事実、七つの手紙の中では最も長い文章である。
 
「わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている」(黙示録2:19)に光を当て、説教の中で何度もここに戻ってくるのだった。教会かくあるべし、というような内容の励ましであるように見える。「更に、あなたの近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっていることも知っている」(2:19)というところは、エフェソの教会に向けて「あなたは初めのころの愛から離れてしまった」(2:4)に比べると、ポイントが高い。
 
この箇所には、特異な点がある。手紙の送り主の自己紹介である。手紙はそれぞれ、送り主イエスの肩書きというか、特徴のような形容がそれぞれ異なっている。このティアティラ宛ての場合には、「目は燃え盛る炎のようで、足はしんちゅうのように輝いている神の子」(2:18)と称している。何が特異かというと、七つの教会への手紙はおろか、黙示録の中で「神の子」という語が使われるのは、唯一ここだけなのである。
 
「神の子」がこの中央の要点に出てくる。この呼称は、ローマ皇帝が自ら「皇帝カエサル、神の子」を称号とするように定めたことを背景にしているはずである。ローマ帝国のリーダーが「神の子」などと自称しているが、そんなことはない。真の「神の子」は、ユダヤの王であり救い主であるキリスト以外にはない。こうした主張を、イエスの弟子たちがしたのだ、というように理解するのが通例である。
 
説教は、珍しく、と言ってよいかと思うが、かなり突っ込んだ社会的な事柄への言及となった。ある宗教学者の講演に学んだと語っていたが、いわゆる「国家神道」について考えさせられたというのである。それは、天皇を「神(の子孫)」とする思想であり、それは「国家」の根幹、あるいは「国体」とされた。それを否むことは、もはや「日本国民」ではない、というふうに扱われることを意味していたのである。その生々しい体験談については、加藤常昭氏がその人生を振り返るときに必ず語ることである。NHKラジオR2「宗教の時間」で5月に再放送されていた中でも語っておられたので、ご存じない方はぜひお聞き戴きたい。
 
先の広島サミットでも、世界のトップを招いたのが、神社であった。伊勢志摩サミットでもそうだった。日本とはこれである。日本人の精神はこれである。それを印象づけたかったのかどうか知らないが、「国家神道」はいまなおこの日本の上空に息づいていることを察知すべきである。説教者はそのように注意を促す。
 
このとき、説教者は私のようには明言しなかったが、「民主主義」というものについても注意すべきであることを語った。これを私という人間の口から言わせてもらうと、「民主主義」を無条件に信じ、偶像化してはならない、というふうになるだろうか。
 
「民主主義」は、人類が様々な経験を経て辿り着いた、ひとつのベターな社会制度である。他に何が良いのか、と代案を求められても困る。だが、この制度では、国の主権は「国民」にあるという。国民一人ひとりが主権者だという、分かるような分からないような概念が与えられる。説教者はそこに、「一人ひとりが王になること」と捉える観点を示した。「自己実現」「自己責任」といった言葉もその観点に基づくのだという。
 
再び私の声として記すが、よく思慮することがなくても、自分の欲望の示すままに下す判断が、主権者としての決定につながる。確かにくだらない考えに多数の人が賛同するはずがない、などという緩い信頼が社会にはあるのだが、果たしてそうだろうか。多様性は尊重するにしても、人間が全体的にそれほど理性的に考えを進めているわけではない。特にこの国では、周囲の人の様子をよく見て、大きな流れに合わせていくことを是とすることが感情の基盤にある。シーソーが一気に傾いて反対側が下がってしまうようなことも度々あった。近年の選挙を見ていても、どうしてこういう人に投票が集まるのか、悩ましく思った人も多いのではないだろうか。
 
説教者は、心に残るフレーズをここで発した。「民主主義は、イエス・キリストを前にしてこそ成り立つのです」と。それは、自分が主となること、王となることがありえないという前提の上で、互いを尊重しようという姿勢にほかならない。人を神とする発想が根本的にありえない前提の上でこそ、「民主主義」はそれなりに適切に機能することができるというのだ。
 
「民主主義」の発祥と見てよいであろうギリシアないしローマ帝国でも、多神教の背景ではあったが、「神々」というものが制度の上にいたことになっている。それも結局は人間の考えだろうなどという指摘は横に置いておくが、少なくとも人間が神となることを掲げはしないものであろう。尤も、ローマ皇帝を「神の子」としたことは、それを受け取る意識や背景的な制度と共に、さらに検討を要することではあるだろう。
 
説教者たるもの、このような、各人が自分だけでは得ることのできないような視点を投げかけることが、ひとつの大きな役割であると私は考える。聖書を読めば、聖書をいくらか知るクリスチャンならば誰もがそう思うようなことを、ただ説明して説教を語ることができた、と勘違いしている人がいるが、とんでもない。それならAIの作文の方がまだ整っているだろう。説教者自身がこの聖書の箇所を開き、神から見せてもらったもの、語れと示されたもの、それが基本である。定説通りに参考書のまとめを話すのが説教者の仕事ではない。私はこれを命懸けであなたがたに伝える、という「信」のないものには、命がないし、神の言葉の出来事とはならないと思う。もちろん、神は力あるお方だから、その手の「まとめ」の中にただ聖書の言葉がそこにあっただけで、誰かの魂を変えることはできないなどとは言わない。だが、少なくともそれは説教と呼ぶものではないのである。
 
「民主主義」は「イエス・キリスト」を前提にして成り立つものである。黙示録は問いかける。まことの王とは誰か。あなたは誰を王とするか、主とするか。ここで、うっかり自分を神としようとしていた者は、ハッとする。ハッとしなければならない。ひとはそれほどに、つい自分を神とする罠の中を、すり抜けるように歩いているものである。時にその罠に陥りながらも、陥っていることにすら気づかないということがある。そうしてひとは、サタンの手下になってゆく。
 
知らず識らずのうちに、ひとは自分の腹に仕えるようになってしまう。だからティアティラの教会へも、「あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている」(2:20)という不備を指摘する。説教者はそのことについても詳しく説いてくれたが、それを詳述することは控える。ただ、いま触れた罠として、ひとが主に仕えているかのように自認しながらも、自分の欲望を実現することを第一としていたならば、それはその実自分に仕えているだけ、つまり欲望の奴隷になっているだけ、という風景を思い描くべきであろう。しかも自分でそうなっていることにすら気づいていない、だから改善の仕様もない、ということになる。それだから、悔い改める必要を覚えるということだけでも、かなり奇蹟に近いことであるのかもしれない。「わたしは悔い改める機会を与えたが、この女はみだらな行いを悔い改めようとしない」(2:21)とあるとおりである。
 
この罠を逃れていたのが、褒められたティアティラ教会の信徒である。「サタンのいわゆる奥深い秘密」(2:24)を知らないで済んだ人々である。それは、欲望を原理とすることの方を自由だと錯覚することなく、欲望というものが実は不自由であることを見抜いたということである。これは「自由」の概念の理解により、様々な言い方ができるので、哲学的な話をここで持ち出すつもりは私にはない。もっと信仰的な領域で、「自由」ということを一度でも考えておくとよいとお薦めする。それは、ルターの有名な「キリスト者の自由」という提言の基本だけでもよいかと思う。
 
だから、イエスに認められた、あの「愛、信仰、奉仕、忍耐」を軸に、「淡々と」生きてゆくとよい。説教者は私たちの実際的な生き方として、この日はそのようなことを推す。箱舟とは無縁な人々のすることに靡いていくことなく、自分の「愛、信仰、奉仕、忍耐」を淡々と担い続けてゆくとよいのだ。
 
社会的な話題について、説教者はもうひとつ、先週の報道から、「改正出入国管理・難民認定法」の成立についても話を始めた。『罪なき者の血を流すなかれ』という本にも触れた。この改正法とは正反対の事柄についての本であるという。ユダヤ人をナチスの手から護ることに尽力した牧師と村民を描いているそうである。そこには、キリストをこそ王として礼拝し続ける信仰があった。杉原千畝やシンドラーという名で今日知られるようになった、こうした隠れた働きに似たものだが、どうやら組織的に行われたことではないのだという。だから、教会組織が何かをするべきだ、というような姿勢ではなく、信ずる一人ひとりが、神との対話の中で、自分が「淡々と」生きて行くその歩みを、考え、決めてゆくことが必要になる、というのであろう。
 
そのような一人ひとりが立ち上がってこそ、イエス・キリストの教会が形成されてゆく。そして教会は、そのような一人ひとりを生み出すことができるように、命の言葉を語る。あるいはまた、語り合う。私たちは、目を覚ましていなければならない。それが平和を実現するように、と祈りつつ、「淡々と」与えられた命を生きるのである。
 
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)
 
最後に、「勝利を得る者に、わたしも明けの明星を与える」(2:28)というフレーズで手紙は結ばれてゆく。突然のように明星が出てくるが、暗闇の中に希望の朝を告げるための一番星が、小さきながらもしっかりと輝く風景を想像したい。この明星がイエス自身であることを、黙示録は最後に種明かしをしていた。
 
わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。(黙示録22:16)
 
真の神の子を礼拝する者へ、イエスはご自身を与えてくださる。否、あの十字架の上で、すでに与えてくださったのだ。



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