「〜とあります」の心理

2023年6月12日

礼拝説教の中では、聖書の文を引用することがある。その中で、「(聖書の文)とあります」という言い方が、口癖のように何度も出てくる話し手がいる。私はそれを聞いていて、あるいは原稿として読んでいて、ずっと違和感を覚えていた。
 
もちろん、その言い方を一度でもしたら変だ、などというつもりはない。異様なのは、それを書かれた文章にするとはっきりすると思うのだが、あまりにもそれが多すぎることである。何かちょっと述べる度に、このフレーズが目の前に現れる。少なくとも私はそんなことはしないし、世の多くの説教でもそのようなことはない。
 
私の出会った記憶では、このケースに該当する3人が特に思い出される。そして、この3人について、およそ説教壇で語る資格のないような人たちであったという共通点があることが、気になっていた。つまり、礼拝の場で、学生が評論文の粗筋をまとめただけの作文を読み上げるようなことしかしなかった人たちである。そして、さらなる共通点は、この人たちが、明確な「救い」の体験を恐らくもっていない、ということであった。少なくとも、神の愛に身も心も溶かされるような経験というものは、全く知らないはずである。なぜなら、語る話に、そういうものが皆目出てこないし、そういうものが背後にある様子が全く伝わってこないからである。
 
では、「(聖書の文)とあります」と度々持ち出すその特徴は、どういう背景をもつものであろうか。「(聖書の文)とあります」の心理というものを、私なりに推測してみた。
 
プロテスタント教会は、その原則として「聖書のみ」というスローガンをもっている。聖書に書かれてあることが重要だという考えである。人や教会の言い伝えに最高の権威を与えるわけにはゆかない、という、ルターの反抗(これが「プロテスタント」という語の意味)に基づくものと思われる。中には、「聖書を徹底的に研究すると、そこには事実でないものがあり、信用できない」と言う研究者もいるが、この研究者自身が、聖書に徹底的に向き合って読み込み、聖書に書いてあるものを信頼し、それを根拠に結論を持ち出しているのを見ると、逆説的なものをさえ感じるものである。
 
「(聖書の文)とあります」ということは、「聖書にちゃんとこのことが書いてあります」とだけ言うときに使うものと思われる。書いてあるからどう受け止めていくか、というのではなく、書いてありますよ、と言い切って終わりだということである。つまり「私はこのようにまとめます。私はこのように皆さんに言いました。それは、ちゃんと聖書に書いてあることですよ。私は正しいことを言っているのです」と言いたい心理がここにあるのではないか、と私は想像するわけである。
 
「私は聖書に基づいて話をしていることが、これでお分かりでしょう。私の説教は、正しいのですよ」という思いの表明であり、さらに言えば、「いい説教でしょ?」との自己顕示であり、「いい説教だったと受け止めてくださいね」の気持ちもそこにあるかもしれない。但し、先に挙げた3人のうちには、この後者のところまでもいかず、とにかくなんとか説教の形にしなければならないのであっぷあっぷしながら、何を言いたいか分からないようなままで、冷や汗垂らしながら時間を埋めるというタイプの人もいた。いくら語り慣れないとはいえ、それは慣れの問題ではない。潜む本質の問題である。
 
今のは全く自信がない人の例であるが、後者のところまで入り込んだ人は、えらく自信たっぷりのように、自己満足しているふうでもあった。しかし私は、内実がばれたらどうしようという不安が意識の底にあるのではないか、と想像している。自分の中に、実は確信できるものをもたないから、「(聖書の文)とあります」を繰り返して話す内容には根拠があるんだと一つひとつ説明し、最後はキリスト教のメッセージらしい、尤もらしい典型的な結論をなんとか置けば、形になる。それが礼拝説教というものなのだ、という程度で仕事を果たしたつもりになっているように思われる。
 
そして、聞く側にも問題がある場合がある。もし説教というものを大切にする気持ちがないのであったら、あるいは神の愛に身を溶かすような経験がないのであったら、そのような説教の奇妙さにも気がつかないし、ちゃんとした説教をする人だと認めてしまうのである。教科書を棒読みする先生が、それをあまり真剣に聴くつもりがない学生にとっては、とりあえず間違ったことを言っていないということで、いい教師だと見なされてしまうようなものである。生徒を感動させ、学習意欲を生み出すような教師に出会ったことがなければ、授業なんてそんなものだ、と刷り込まれてしまうことだろう。
 
誤解なさらないように。「(聖書の文)とあります」という言い方を少しでもする人がよくない、と言っているつもりはない。ただ、このような言い方を繰り返している、ということに今後気づいたら、ちょっぴり疑ってみてもよいのではないか、というヒントをお知らせしただけである。もしも該当するケースがあったら、へたをするとあなたの「命」に関わる問題である。あなたは神の言葉を、礼拝の場から受けることが全くない可能性があることになるからである。もちろん、そんな箸にも棒にもかからないような話に頼らず、個人的に神と向き合っていくような方は、その道を邁進してくださったらよいのである。



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