聖書について願うこと

2023年6月10日

聖書について霊感説と称されるものがあり、一部の人にはたいへん不評である。もう少し的確に言えば「逐語霊感説」という。聖書を直接記したのは、間違いなく人間である。だが、それは神の霊感を受けて書かれたものであり、一字一句誤りがない、とする考え方である。
 
確かに、それは信仰という点では正統的であると言えよう。聖書は神の言葉であるとするなら、そこに誤りがあるという目で見ることはよろしくない。どうも、カトリックが教皇の言うことは無謬である、としたことに対抗して、いやいや聖書だけだ、という方向で強調されたようであるが、今度はその文字が、かつての教皇のような権力を発動しかねないことになってしまった。これをそのまま直截に主張する立場が、いわゆるファンダメンタリズムである。
 
他方、自由主義神学などと称するグループは、この考えに真っ向から反対する。リベラリズムと称することもある。歴史的伝統や特定の組織の判断などに左右されず、個々人で聖書を解釈してよい、とするのである。聖書を一定の文献として捉え、科学的とも言えそうな方法をも用いるが、これがさらに急進的になっていくと、いわゆる教義と呼ばれるものもすべて事実ではないとし、もはや信仰というものが成立しなくなる次元にまで及ぶことがある。
 
聖書の記述自体にも、私たちの目から見て矛盾と取られるものが多々あることにより、さすがに聖書自体が全くもって無謬だとするのは、無理があると見られるようになった。そうなると、リベラリズムの方が、逐語霊感説をとる側を、冷ややかな目で見下すような場面が、一般的であるようになってくる。しばしばあるのは、ファンダメンタリズム側は、何かしら論理的にリベラリズムを批判しようとするふうではなく、後者が理詰めでファンダメンタリズムを攻撃する様である。が、中にはあまりにばかばかしいとして、全く相手にしないような口調で一蹴するということもあるようだ。
 
どちらも、聖書という料理を外から眺めてああだこうだと評しているのかもしれないが、どちらにしても、自分たちこそ正しい、という態度で構えているのには違いない。もちろん、誰だって、何かを主張するとあっては、正しいと思ってのことであるから、それが悪いわけではない。しかし、正しいのはほんとうに、どちらか一方でしかないのだろうか。相対立する考えの、どちらかだけが常に正しいということになるのだろうか。
 
聖書というものはこれこれである、という研究がしたいのであれば、これらの主張が対立するであろうし、何かしらの結論が出るのかも知れない。だがそれは、聖書をひとつの研究対象として述べようとしていることのように見える。
 
私は、そこに読者という個性が入り込む隙間がないことに、問題性を覚える。聖書という対象がどうでいるかに熱心になるよりも、聖書に向き合うその人が、聖書とどう交わるのか、それがなければ、意味がないのではないか、と思うのである。そこにいるはずの人格としてのひとを抽象して、聖書だけ調べ上げようとしても、まるで主観抜きで客観を立てて自然を支配しようとするに至った近代のあり方から、なんの反省も進歩も見られないような気さえするのである。
 
そういうわけで、聖書を批評するのではなく、聖書に触れる人がたくさんいてほしいし、それによって、自分が世界の中心にいるかのような呪縛から解き放たれるようになってほしいと私は願っている。
 
それは私の祈りであり願いである。そこに私の居場所もある。私という人間は人付き合いも悪く、自分本位なためになあなあでうまくやれない、どうしようもないような者だが、そんな者でも、聖書の中で、イエス・キリストに出会う体験を、どなたにもして戴きたいとつねに願っている。
 
聖書という料理がどうであるかという評定がしたいのではなく、それを食べて「おいしい」と喜ぶ顔が見たいばかりである。もちろんそれは、最高においしい料理であると私が知っているからである。



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