若者が教会に来ないという件について

2023年6月6日

少子高齢化は一般社会よりも先んじて、教会がその末路を具現しているかのように見える。但し、子どもは実は絶滅していない。若い親が連れてくるからだ。いないのは、いわゆる「若者」である。親が連れてきていた子どもたちが、中学生辺りになると、教会から姿を消す。教会に新たな姿を見せるのは、人生につまずいてかなり「大人」になった世代であろうか。
 
否、このように如何にもパターンで話をすることは、推奨できない。私も拙いことを言ったものだ。実際、若い世代が集まる教会もある。迂闊なことを言って、勝手に決めつけるなよ、と言われることは、できれば避けたい。
 
だから、幾つかの教会の溜息として、実際にあるものを言うのだ、というスタンスでいよう。「教会に若者が来ない」のだ。若い人が教会に来ない、という嘆きは、確かにどこぞの教会にはあるのだ。
 
だが、その視点が全く的を外している、というふうに考えてみる必要があると私は思っている。つまり「教会に若者が来ない」という言葉の背後には、「教会は若い人にもメッセージを送っている」「若い人が来たら熱烈歓迎するのに、教会に来てくれない」というような気持ちが見え隠れするような気がするのだが、そうではない、と私は思うのだ。
 
多分、そもそも教会というところが、若者が行くところの選択肢の内に、入っていないのではないか。若者の視野の中に、教会という風景が全くないように感じるのである。教会が若者の来る場所として見えていないのだとしたら、メッセージを送っているつもりであるのは無意味であるし、歓迎する準備をしても実際にそれは起こらないことである。ほのかに憧れるあのひとに聞こえないところで愛を叫んで、自分の誕生日にそのひとが訪ねてきてくれる風景を想像するとよいかもしれない。
 
では、聞こえるように叫べばよいのだろうか。それも、若者をべた褒めでもして、若者が来て楽しいところだよ、と宣伝しようか。もはや迎合と呼ばれてもよいから、なんとかしなければならないと思い、コンサートのような気を惹く催し、あるいは魅力がありそう流行色の強いイベントを企画するとよいだろうか。
 
しかし礼拝は礼拝である。若者が教会に来てほしい、というのは、基本的に礼拝であろう。これをギターやダンスのようなもので盛り上げていくなどという案を出したとしても、これまでの教会員が、なにより多分にオトナの牧師や役員が、耳を貸すはずがない。
 
いっそ、礼拝という場とは関係なく、教会と関わるというのはどうか。これも画策している。たとえばただのボランティア団体として活動する。そこでは聖書の話などは一切しない。黙々とボランティア活動をする。他の団体とも協力を惜しまない。あるいはまた、地域でボランティアができるという立場で、いわゆる地域活動に参加する。
 
教会をイベント会場として使ってもらう、という方法もあるだろう。設備として一定の規模を備えている場合、一般会場よりも安価に貸し出して、使ってもらう。整備や管理が大変だし、施設の保険などの問題もあるだろうが、こうすると、教会という場所に足を踏み入れて内部を多くの人が知るというメリットがある。
 
教会というところの、中身が見えないところが、一般社会の人々からすると、不安の材料のトップである。オープンにすると口で言うのは簡単だが、実際に人々から中身が見えないと、中に入って礼拝に参加するなど、思いつくこともないわけだ。会堂の中を知ること、そして牧師など指導者やそこにいる人間を知ること、ここが大きなポイントである。そのため、メディアで知られた人がいると、だいぶ壁は低くなるし、ツイートなどでちょっとしたインフルエンサーにでもなれば、わざわざ訪ねて行く人がいるという現象は実際に見られている。「聖地巡礼」という感覚は、アニメなどでおなじみだが、教会に行ったよ、というのがインスタ映えのファッションになるならば、それはそれで出入りがあるだろう。
 
しかし、さらに大切なことは、それが続くことであり、自分にとり所属感ないし安心できる場所となることだ。そうした小さなコミュニティとして動くことは、たとえばアメリカではよくある形であると聞く。人々は、極小なる家族のようなコミュニティ、大きな学校や企業や政治単位といったコミュニティ、そのどちらからも逃げ場になりうるような、中間的なコミュニティを必要としている、という考え方があり、アメリカではそこに教会がある、と見なしているというのだ。
 
だから、日本でこのやり方をしていくには、このコミュニティ感覚が問われるのではないかと思われる。かつての村社会がなくなって、いくらかそれに移行する基盤はできているように思われるが、文化的に同じではないために、アメリカと同様に展開することは難しいだろう。その点、幼稚園や社会福祉的次元で社会的活動の地位を築いている教会は、ある程度の骨格をもっていると言えるかもしれない。
 
だが、教会たるところは……という頑なさをもつことが、いまの教会の重鎮たちには多いのではないか、という感じもする。礼拝人数が増えてこその教会であり、それが経済基盤になるのだ、という点は世知辛いが無視はできまい。否、人々の救いのためだ、という点を挙げるならば、それは本来的なことである。教会員は増えなくても、救われる人が増えたならばそれでよい、という祈りを献げている教会も確かにある。
 
実際、教会に魅力をほのかに覚えている若者は、一定量いるはずである。私は、若者一般の選択肢にない、と言ったのであって、若者のすべてが選択肢をもたない、と言ったのではない。そこは聖いところ。心が洗われるところ。苦しい思いを、もしかすると解決することができるかもしれないところ。ステンドグラスと荘厳な会堂というイメージで、教会に憧れる人は、少なくないと思う。
 
すると、カトリック教会はもし行くと概ね意に適うのであるが、プロテスタント教会の多くの場合には、実際入ってみて意外に思うことが多々あるという。これは私が幾度となく耳にした言葉である。正直に言えば、最初はがっかりしたのである。そういうプロテスタント教会では、ここの教会は家族的で親しみやすいのですよ、などというウリを口にする。それがうれしい人もいるであろう。他方また、他人に干渉されたくない、という人も最近は多い。こっそり礼拝に加わり、こっそり出て行くことを求めるタイプである。新来会者として名を呼ばれたり、インタビューされるなどすると、心に疵を負う。その点でも、カトリックは優れている。
 
何も、教会が若者に対するインフルエンサーになる必要はないという考え方もある。ごく僅かでも、教会に魅力を感じる人は現れるであろうし、真面目に真実を求めるという意味では、実は潜在的にかなり多くの若者がその範囲にいるのではないかと私は思っている。思い出せば、私たちオトナも若いとき、人生とは何か、真理とは何か、と問うていたのではないだろうか。
 
一部には、なんでもネット検索して、世界に対して明らかに誤った認識をしている子どももいるという。それが時代の趨勢とならないように願うが、マスコミが話題にする妙な子どもというのは、決して一般的な現象ではないように思われる。但し、半世紀前の生活文化を知らないとか、身近な動植物についての知識が壊滅的な情況になっているとかいうことは、確かな事実である。
 
若者は真面目である。そして時に、抜群の才能を示す人が現れる。発達した文化や文明をうまく活かした教育は、従来のやり方では育てられなかった才能を生み出すことに貢献したといえる。そういう人たちはなおさらのことだから、確かに多くの若者は、真面目に、人生を問うし、真実を求めている。キリスト教会が、内部で「大人」のわがままを闘わせるようなことをせず、「大人」こそが心を開いて、真実一路を示すようであれば、もしかしたら若者たちの選択肢のひとつに教会が入ってくるのではないか、と私は思っている。
 
そこでひとつの結論的な私の感想である。若者に責任を負わせるような見方をせず、若者に理由を探すのでもなく、「大人」が変わらなければならない。
 
教会の「大人」たちは、世の組織や団体と何も変わらないようにしているのではないか。もし仮に教会に若者が訪れて、何週間か通ったとしても、尊敬すべき大人の姿を見せる前に、下賤でつまらないことで言い争っているような様子を見せたり、感じさせたりしたら、真実を求める若者は落胆するに違いない。なんだ、教会も俗世間と同じではないか。むしろ教義を押しつけるような、あの組織と変わらないではないか。礼拝の後も聖書の話で花が咲くかと思いきや、誰ももうそんな話はしない雰囲気。会社組織や文化サークルと変わらない風景に、その真面目な若者は、ここは自分の求めるところではない、と判断するような気がするのだ。
 
私は、電車で通勤している。電車の中や駅では、マナーの悪い人が一定数現れるのはやむを得ない。だが先週、私に不愉快であったのは、殆どが「大人」であった。若者ではなかった。「大人」が自らを顧みて、変わらなければならない。もちろん、私自身を含めて。



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