【メッセージ】絆があるから

2023年6月4日

(エレミヤ50:1-8, コリント二1:21)

彼らはシオンを訪ね
顔をその方向に向けて言う。
「さあ、行こう。
 主に連なろう。
 永遠の契約が忘れられることはない」と。(エレミヤ50:5)
 
◆言葉にできない
 
すべての人が神に救われます。時折、そのように言い始める人が現れます。そう考えたい心理は理解できないわけではありません。聖書の言葉の一部を拡大すれば、そう受け取ることが不可能ではない、ということもありうるだろうと思います。けれども、聖書の解釈には慎重にならなければなりません。また、人間の願望を、神に受け容れさせるかのような態度も慎みたいものです。神を、人間のロボットにするとなると、もはや信仰でも何でもなくなります。
 
すべての人が神に救われる。この思想を、「万人救済説」と呼ぶことにします。そういう考え方は、早くには、新約聖書の文章が書かれて少し後の頃にはすでに現れていた、と言われています。宗教改革の後に流行した、という話を聞いたこともあります。カトリックの統率から外れたことで、自由に信仰の解釈が口にできるようになったことが背景にあるような気がします。
 
その後も、この考え方は、一部で人気があるようです。しかし聖書は大筋で、そのような思想を伝えてはいない、そう捉えるのが普通であるような気がします。もちろん、最終的にどうであるのか、は神が決めることでしょう。ここでも、神を人間の召使いにするわけにはゆきません。
 
ただ聖書は、「キリストを通して救われる」、というようなメッセージを送っているように読むことは可能でしょう。近年特に、「キリストに結ばれてこそ救われる」、というような言い方が強調されるようになりました。
 
人間の言葉です。人間が何かを表明するには、人間の言葉を使います。この言葉は、事態を完全に説明することはできません。あるいは、人間の言葉は非常に貧しい、とでも言えばよいでしょうか。言葉を使っても、伝えたいことが伝わらない。伝えることができない。言葉の誤解は私たちの日常を取り巻いていますし、自分のことを伝えようにも、どう言えばよいのか分からないというもどかしさを、覚えたことがない人はいないでしょう。
 
言葉ではうまく伝えられなくても、きっと、同じものは感じることができるはず。以心伝心はある意味で可能だ。そういうことを思う人もいるでしょう。そこでひとは、言葉で言えないことを伝えるために、「象徴」という手段をとることがあります。「象徴」とは、表し示すことのできないもの、比喩的に言えば「見えないもの」、それを「見える姿」で表そうとしたもののことです。難しく言えば、抽象的な概念を具体的な事物で表すこと、表されたもののことです。
 
たとえば、「平和」ということを誰もが思うために「ハト」を示すことがあります。これは聖書のノアの方舟の物語に由来するものとよく言われます。但し、それはさほど昔のことではない、とも言われています。「愛」や「恋」は「ハート」の形で伝えられます。心臓の形だともされますが、ずいぶんとシンプルにデザインされたものです。それでも、これはやや古いキリスト教世界で使われるようになった、という話を聞いたことがあります。
 
言葉にできなくても、形で、見えないものを示す工夫を、人類は続けてきました。先人たちが大切にしてきた心は、私たちも可能な限り受け容れて後の世代に伝えていけたらよいと思います。そうすることで、人類は、過去の人類と対話をすることができるようになるからです。
 
◆キリストと結ばれる
 
先ほど「キリストに結ばれて救われる」という考えを思い出してみました。今日はこの表現を見つめてみようと思います。
 
「キリストに結ばれる」、関心はこのことです。神秘的です。抽象的です。たとえば、どういうことなのでしょうか。イエスは十字架の上で、私の身代わりに死んでくださった。そのために、私の罪は赦された。消えた。無罪になった。ええ、それもひとつでしょう。嘘はないと思います。また、十字架で死んだだけではなくて、イエスは復活しましたから、その復活したイエスが私の中で生きている。それも信仰者には確かなことです。新約聖書を信じているというのは、そういうことだと思います。その後聖霊が遣わされてきたために、いまも絶えずイエスと私との間に通い合うものがある。そうしてつながった関係が生き生きとここにある。ええ、本当にその通りだと思います。「結ばれる」とは、「関係が結ばれる」ということを意味している、というのが本質的な部分であるのだろうと感じます。
 
けれども、まだ何か、掴みきれていないところがあるはず。そんなに簡単な言葉で、何もかもが言い尽くされたなどということはないでしょう。
 
パウロがよく使う言葉があります。「主に結ばれる」「キリストに結ばれる」という表現です。興味深いことに「イエス・キリストに結ばれる」という言い方をパウロは殆どしていません。それは第二テサロニケにのみ2箇所あるのですが、これはパウロの弟子の世代の文書だというのが定説です。逆に「キリスト・イエスに結ばれる」であれば、パウロの手によることは間違いないと研究されている手紙の中で、新共同訳聖書の中で、十箇所以上見出されます。
 
「イエス・キリスト」と「キリスト・イエス」との違いについて、研究が俟たれます。安直に印象めいたことを語り、皆さまを混乱させることはしたくありません。
 
それよりもむしろ、この「結ばれる」という邦訳そのもののほうです。先ほど「新共同訳聖書の中で」とわざわざ入れました。これには意味があります。それを受け継いだ新しい「聖書協会共同訳」においては、その「結ばれる」が激減するのです。というより、「キリストに結ばれる」という言葉そのものが、消えてしまうのです。
 
新共同訳聖書は、カトリックとプロテスタントとが、日本で初めて共同で取り組み発行した聖書です(「共同訳」については触れないこととします)。ここでは「キリストに結ばれる」という表現が多々ありました。しかし、同じく共同して30年ほど後に生みだした聖書協会共同訳では、これが消えてしまいました。
 
原文はもちろんギリシア語ですが、英語に直すとここは、「in Christ」に相当します。他の訳では「キリストにあって」という場合もあります。「キリストにおいて」「キリストの内で」のような感覚で捉えるのもよいかと思います。
 
ひとつの日本語にしてしまい、その日本語の表す意味に引きずられて、ただ一つの意味に集約していくことは、避けたほうがよいと思われます。翻訳することで、訳された言語の文化にすっかり塗りかえられてしまう虞があるからです。私もここで一つの意味をもたせようとは思います。受け取る方それぞれが、自分がキリストの内にいる、という感覚であればそれでよいし、自分がキリストにおいてつながっているのだ、というふうに信じているのなら、そこに意味が生じると思っています。
 
◆バビロン捕囚からの解放
 
さて、聖書のテクストに目を注ぎます。エレミヤ書です。預言の書とくれば、しばしばその預言者の語った内容が、詩のように綴られていることが多いように感じられるかもしれません。大きな四つの預言書だと、預言者自身の体験したことを物語調に描いていることもありますが、エレミヤ書は、その中でも特に、エレミヤ自身の生涯をよく伝える点で際立っています。但し、時間的順序がてんでばらばらになっていますので、最初からただ読んでもうまく理解できません。適切なガイドや解説があるでしょうから、事柄の起きた順番に合わせて読むことをお薦めします。
 
50章のこの場面は、その順序という点では、あまり悩む必要はありません。ここはエレミヤの見た幻であり、先に起こることを予言したような情景が綴られています。エレミヤは、バビロン捕囚の前から預言活動をしており、バビロン捕囚の現場に立ち会うような人生を送りました。エレミヤ自身は、バビロン側に向かわないでエジプトに逃亡するグループに引きずられて行ったように読めるのですが、ともかく、何十年も先の、ここにあるような、バビロン捕囚の人々がユダヤに帰還するような様子を、知るはずがないのです。
 
だからこの描写は、エレミヤより後世の誰かが、エレミヤが言ったかのように記したのだ、という説明も成り立ちます。尤もらしい説明ではありますが、だとしても、エレミヤの口に乗せるのは大変相応しいことだと考えます。私たちも、さしあたり書かれている通りに読んで差し支えないものとしておきましょう。
 
バビロニア帝国軍はエルサレム神殿を破壊し、文化豊かなユダヤの国をまともに再建できなくするために、ユダヤ民族の有力者たちをバビロニア帝国に連行します。世界史でも必ず学ぶ「バビロン捕囚」です。捕囚とは言っても、その地でそれなりに生活することはできます。過酷な労働を強要されるなどがなかったとは言えませんが、細々と暮らすことについては恐らく問題がなかっただろうと思われます。
 
この経験は、ユダ国のイスラエル人には応えました。戦いに負けた国の神は滅びるのが常識であった当時にあって、ユダヤ人たちは、負けを神のせいにはしませんでした。これは自分たちが主に背いたせいだ、と受け止めます。この思いが、バビロニア帝国で暮らすうちに、ユダヤ教の思想を形成していった、という理解が、いま一般的です。旧約聖書の文書の基盤が築かれた、と目されています。
 
そのバビロニア帝国も、栄華は長くは続きませんでした。その半世紀余り後、不安定な政治で内戦が起こる中、それを制圧した東のペルシア帝国により、バビロニア帝国は滅亡します。ペルシア帝国は、捕囚民が故国に帰ることを許可するという政策を執りました。
 
これはユダヤ人たちには、奇蹟のようなことでした。確かに、捕囚されて、いつかイスラエルの地に帰還したい、と思っていた人も多かったことでしょう。それが実現することに鳴ったのです。もちろん、すでに異国で生活基盤を得た人々は、滅びた土地に戻る危険を冒さず、もう今の地で暮らすほうがよい、と考える場合もありました。むしろ、イスラエルの地に戻ったのはかなり少数だ、という見解もあります。私もそうだろうと思います。
 
喜んで帰還した人がいたのは確かです。けれども、本当にそんな日がくるなどと、ずっと思っていた人が、果たしていたかどうか、分かりません。夢のような思いで自分の祖父母あるいはそれ以上の世代の呼吸に戻ることになるわけです。エレミヤの預言は、そうした時の情景を描きます。
 
聖書を信じます、神に祈ります、そういうのがクリスチャンの建前ですが、本当にそうかな、と思う不安のようなものが過ることはないでしょうか。まさか、本当にそうなるとは、と、いつも祈っているくせにびっくりしてしまうという経験談を聞いたことがあります。気持ちは分かります。バビロニア帝国に囚われていた人々の気持ちに、少しばかり共感を懐いてみては如何でしょう。
 
◆主とのつながり
 
5:彼らはシオンを訪ね/顔をその方向に向けて言う。/「さあ、行こう。/主に連なろう。/永遠の契約が忘れられることはない」と。
 
主に連なろう。囚われていた人々が、故郷を思い描いて、声を掛け合います。イスラエルの地へ帰ることが現実的になってきた時のことだと推測されます。「さあ、行こう」と喜び合います。主に連なろう。ここに、今日は何度も戻ってくることにしましょう。
 
「主に連なろう」との訳は、他にもたとえば新改訳聖書がそうでしたし、口語訳もそうでした。但し、新共同訳は霊によって「主に結びつき」となっています。「連なる」と「結びつく」は、なるほど大きな差を感じさせない僧位です。ここでも、新共同訳の「結び」好みの趣味が出ているのかもしれません。カトリック側の意見が強いのかしら、とも思いますが、無責任にその辺りの詮索はしないようにしておきましょう。
 
これが新約聖書になると、主に連なるということは、神と直接というよりも、キリストが間に入ることになります。私たちはキリストを介して、神との関係をもつことになります。ここが、聖書を読み始めて間もない方には、ぜひとも聞いて戴きたい部分です。
 
日本古来の「神」は、人との境界が曖昧です。卓越した能力をもつ人のことを「神!」と若い人が叫びますが、それは実は非常に古い伝統を引き継いでいることになります。「何々の神」とすぐに言うのは、人が神になるのが当然だからです。平凡な人でも、人は死んだら神になるとうっすら信じられているのです。
 
しかし聖書は、人は決して神にはなりません。「神」という語が想定しているものが、そもそも日本の場合と異なるのです。だから、聖書の訳において「神」と訳したことは、本当は拙かった、と考える人も少なくありません。
 
人は神にはなれませんから、人と神との接触も困難です。旧約聖書の世界では度々、神を見たら人は死ぬ、と固く信じられている場面があります。それが新約聖書では、イエスという方が人と神との間に立つわけです。
 
私たちはキリストと結びつく必要があるでしょう。しかしそれは、神と無関係な次元の話ではありません。キリストとつながることが、神とつながることになるからです。神の愛が、私たちに直接向けられていることを喜ぶべきでしょう。そうした言葉をひとつ見出しました。
 
私たちとあなたがたとをキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注いでくださったのは、神です。(コリント二1:21)
 
油を注ぐ、それには象徴的な意味があります。そもそも「キリスト」という言葉が、「油注がれた者」という意味であることは押さえておくべきです。それは、元々「王に任命する」ための儀式でした。私たちが神から油注がれるというのであれば、破格の待遇を受けていることになると言えるでしょう。
 
それは、「愛されている」というように受け止めることも可能だろうと思います。聖書には、そのように「神が私たちを愛した」ということもたくさん書かれています。聖書のあちこちに触れて戴きたいと願います。
 
この手紙を書いたパウロと、手紙を差し向けられたコリントの教会との人々とは、同じキリストという方に包まれ、支えられて、確かに立っています。そして私たちはそれを確かに信じており、神の愛の中に守られています。それは、いまの私たちもまた、同じはずです。
 
◆聖書にある絆
 
神は、キリストにおいて、人と神とがつながる道を用意してくださいました。旧約聖書ではこのキリストという方の存在が明確ではありませんでしたから、「主に連なろう」という掛け声に留まっていましたが、新約聖書の時代になってからは、キリストがそのつながりを確かにしてくださる鍵となるわけです。
 
思い起こすのは「絆」という言葉です。東日本大震災のときに、どこからともなく現れ、一世を風靡しました。美しい響きに、初めてそれを聞く人も魅入られました。励まし合う意味もこめて「絆をつくろう」などという声が挙がりました。そのとききっと人々は、「つながり」のような意味で「絆」という言葉を使っていたのではないかと思います。
 
元々「親子の絆」という言い回しがよく使われていたと思います。いがみ合っても、親子の絆があるから和解する、というような文脈が代表的だったように思います。実はこのとき、「絆」という言葉は、適切な意味で使われていました。
 
「絆」という漢字は別に「ほだし」とも読みます。こう読めば間違いなく、家畜をつなぐ紐のことです。家畜が逃げないように、言うなれば縛っておくような者で、そこから離れようにも離れられないようにするための、束縛の象徴ともなります。反抗して否定しようにも、親子の絆はなくならない、という意味合いを理解すること思いますが、これは「きずな」と読んだとしても、この「ほだし」の意味です。「情に絆される」という言葉の意味を含むのです。「きずな」と読もうが、束縛するものという意味が、本来の意味であり、基本的にそれしかないのです。
 
ですから、震災の時によく言われた「絆をつくろう」という言葉は、私には少しばかり抵抗のあるものでした。もちろん、人と人とがつながろうとすることは、尊く大切なことだと私も強く思いましたけれども。
 
聖書で「絆」という訳語が登場するのは、三、四箇所あります。新共同訳が「愛は、すべてを完成させるきずなです」(コロサイ3:14)となっているところを、聖書協会共同訳では「愛はすべてを完全に結ぶ帯です」としているほかの三箇所は、どちらの訳にも現れます。但し、新共同訳ではひらがなの「きずな」であり、聖書協会共同訳は漢字の「絆」です。東日本大震災のときにその漢字が浸透したための変化なのでしょうか。
 
聖書でのその「絆」ですが、「私はあなたがたに杖の下を通らせ、契約の絆へと導く」(エゼキエル20:37)は、元々イスラエルとの間で結ばれていた契約に連れ戻すようなふうにとると、「ほだし」の意味にも受け止められることでしょう。「平和の絆で結ばれて霊による一致を保つよう熱心に努めなさい」(エフェソ4:3)はどうでしょう。これは新たに「つながる」という意味合いのように見えるのですが、如何でしょうか。
 
そして「絆」という言葉が最も印象的に現れるのは、なんといってもホセア11:4の美しい言葉です。
 
私は人を結ぶ綱、愛の絆で彼らを導き/彼らの顎から軛を外す者のようになり/身をかがめて食べ物を与えた。
 
エジプトからイスラエル民族を呼び出して約束の地に導いたにも拘わらず、民は偶像を拝みます。そういう中でも、「愛の絆」で導いたのだといいます。神からすれば、もう離さないという慈しみのようなものを感じます。常にすでにそこにあるもの、神が備えているものです。人がどういう意志をもち、どう行動しようが、変わらない神の側から結ばれた関係がある、というのです。
 
◆迷える羊
 
だとすれば、私たち人間がするべきことは、何も偉そうなことである必要はありません。神が備えたその関係に気づき、神の呼びかけに応えることです。人間の方から、神との関係を結ぼうともがく必要はありません。神の側から、すでに絆が用意されているのです。
 
親に対する子どもの反抗というものがあると思うのですが、こんな親はもういらない、などと背を向けるわけです。それは、子どもがひとりの成人として自立するための、ひとつのステップでもあります。いつまでもただ単に依存している状態から離れるための、自然のセットした段階であるのかもしれません。しかし、親のほうからは、いつでも助けるというような関係を用意しています。家を出た子どもに対しても、いつでも帰ってきてよいのだという道を用意しているのです。
 
いくら神に背を向けて遠ざかるようなことをしても、神は戻る道を用意しています。神なんかいらない、と断ち切ろうとしたとしても、それで切れて消えてしまうような関係ではない、とするのです。
 
ひとが神から離れようとするのは、子どもの成長のように、発達段階のようなものではないでしょう。自ら神に背を向ける、それももちろんあるはずですが、時に、間違った考えや人々に従ってついていくことから起こることがあります。悪い仲間に誘われて、よくない道に逸れていくこともありますし、尤もらしいようでありながら実は間違っているという世相や流行のものに誘われてついていくことから起こることもあります。
 
イスラエルの民にしても、エレミヤは、個々人が誤ったとして責任を負わせようとはしていないことが分かります。
 
6:わが民は迷える羊の群れであった。/牧者が彼らをさまよわせ/山々を行き巡らせた。/彼らは山から丘へと歩き回り/自分の憩う場所を忘れた。
 
これは他の預言者も指摘する点です。誤った指導者が、民を間違った道に連れて行ってしまうのです。そのとき民は、ただの反抗者というよりは、むしろ犠牲者であるのかもしれません。指導者のいない羊の群れであるような民のために悲しんだ、イエスの姿を思い起こします。イエスのいた社会において、律法の正しさを自分のために誇るのが、ファリサイ派の人々や律法学者たちでした。祭司長のような権力者もそうでした。彼らがユダヤの民を導くように聳えていた様子は、この、迷える羊をさまよわせた者たちと酷似しています。
 
それは、現代でも当てはまることなのだ、と捉えることはできないでしょうか。このことについてはこれ以上言及しませんが、この視点をもてないままにリーダーシップをとっている者たちは、いくら甘い言葉を口にしていても、同じように預言者やイエスに、厳しい言葉をぶつけられていることでしょう。それに気づかないでいるならば、もっと酷い情況に自らを招くことになってしまうことでしょう。
 
8:バビロンの中から逃れよ。/カルデア人の地から出て行け。/群れの先頭を行く雄山羊のようになれ。
 
迷える羊たちもまた、声を聞き分けることが必要です。誤った指導者に無条件に従っていくことから抜け出さなければなりません。私たちもまた、バビロンから逃れ、出て行き、然るべき場所としての約束の地、あるいはまた神の国へ、群の先頭に立って勇ましく歩んでいきたいものです。
 
そこには道があります。神の備えた愛の絆があります。それが見えるでしょうか。見えないものであっても、信仰によっては見えるのです。象徴であっても、信仰の目にはきっと見えるはずです。そうして見えれば、もう迷えることはないに違いありません。
 
◆絆があるから
 
神からの絆。頼もしいものです。ありがたいものです。しかし、私は経験があります。初めて信仰生活に入ろうとするときに、不自由さを恐れるのです。クリスチャンになったら、あれができなくなる、これもできなくなる、こんなふうにしなければならなくなる、そんなふうに心配するのです。家の墓のことはどうなるのだろうか。日曜日の仕事をどうやって断ったらよいのだろうか。
 
もう悪いことができなくなるではないか。いや、それは笑い話のようでもあります。私が、立派なクリスチャンらしいことができるかどうかを心配するよりも、生活の上での不自由のほうに気が向かってしまうのです。皆さんは、そんなことはありませんでしたか。私だけが、そんなダメダメな態度だったのでしょうか。
 
結局、その「悪いこと」も、してしまいます。そこに気づけばよかったのに、やけに不自由を恐れる心理が働いてしまっていました。神からの厳しいつながりがそこにあるのに、それを余計なものであるかのように感じていたこと、それそのものが不信仰であるということに、そのときには気づいていなかったのです。
 
神からのつながり、神の愛の絆、それは私にとって、私の力でなんとかなるものではありませんでした。私が振り払おうとしても、それは離れません。私が背を向けたとしても、神からの絆はいっそう強く私を縛り付けているのでした。正に「ほだし」でした。
 
その「ほだし」も、いまはやはり「きずな」と呼ばせて戴きましょう。それは、切ろうとしても断ち切れない結びつきです。しかし、それはいまや安心の結びつきです。安心できるから、自由な心になれます。もう大丈夫だ、という思いになれます。その思いに、また安心できます。
 
時に神学は、あるいは私たちの好奇心は、ほかの誰が救われるかどうか、そんな議論に熱中したくなります。しかし、そんなことを気にする必要は一切ないはずです。常に神は、「あなたはどうか」と私に向けて問います。「あなたはどこにいるのか」とまず私に問うた神は、いつでもどこでも「あなたはどうか」という問いを以て私の前に現れます。
 
そのときには、神の絆があるから私は大丈夫です、そう応えればよいのです。毎日喜びをを噛みしめていたらよいのです。神からもたらされたその光を輝かせていればよいのです。誰かにそれでよいのかと問われたら、楽しくてたまらない、と答えればよいのです。その後のことは、神がなさるからです。神の業は、神が責任を以て始末してくださるのです。絶大な愛により、その力により、成し遂げてくださいます。
 
だから、顔をそちらに向けましょう。どちらにかって? イエス・キリストの方にです。うまく言葉で説明できないことだらけですが、言葉にできなくてもよいのだ、と私たちは理解してきました。イエスの姿が見えるでしょうか。いまは見えないものがたくさんありますが、見えないものを象徴するために、そこにイエスがいます。イエスの十字架があります。それが私たちの道標です。
 
「さあ、行こう。/主に連なろう。」(5)



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