目を覚ましなさい

2023年6月4日

見えない人には、見えない。気づかない人は、気づかない。分からない人には、どうしても分からない。分かれという方が、無理である。
 
思い込み――最近は「バイアス」などとも呼ばれる――が、言われていないことを聞いたつもりになる。これはきちんとしたことなのだ、形があって然るべきなのだ、と自分の中で形作ってしまったものが、ありもしないものを、あったかのように思いなしてしまう。幻想を生みだして、対象に対する感情を正当化する、あるいは迫害するわけである。
 
ほんとうに、そんなものがあっただろうか。そのように問うこともない。調べることなど、到底ない。もしも、なにかおかしい、と気づくことがそれぞれにあったとしても、周囲が言い出さないことには、自分の感じ方がおかしいのだろう、という具合に判断する。それくらいの感覚で波風を立てる必要もないし、ほんとうに自分だけが誤解しているのであれば、自分の立場に疵がつく。こうして、まるで集団催眠にかかっているかのように、皆が「それでいい」と受け容れていく。
 
空気を決定していく仮象は、真理のために崩されるべき機会を失い、非本来的なありかたこそが正当であるかのように振舞うようになる。
 
私たち人間は、歴史の中で、そのようなことを経験してきた。そうして、取り返しのつかない事態を招いては、少しばかり反省をするが、喉元過ぎれば熱さを忘れるということを繰り返してきた。大言壮語は、その結果だけを聞けば、いかにも正しいように聞こえてしまう。だが、それはたいてい、how(いかに)を欠いている。聖書の言葉が真実であるのは、その結果だけではなく、救いのhowがあるからである。ところがhowなしに、目的のためにhowを創り出すことが正当化されるのだとする考え方に陥ると、ひとは残虐なことですら正しいと思い込んでやってしまうようになる。歴史の中にその例は数知れない。
 
さて、旧約聖書に現れる預言者は、必ずしも神から「これを言え」と命令されたわけではないだろう。そうした預言者もいたかもしれないことは否定しない。だが、自分の正義ではなくて、神の正義を強く覚えた視点から、いたたまれなくなった魂が、神の思いはこうではないか、と叫んだ可能性が高いと思う。
 
もちろん、自分が「神の正義」だと思う故にそれが正しいのではない。偽予言者の存在も、度々話題になっている。いまの世にも多々現れている。こうした偽物がまた巧みに人々の意に適うことを言う。口が巧い。だから、その偽りが気づかれないようになるからくりもある。
 
本当に、それでよいのか。あなたはそれに満足しているのか。あなたという人間は、その程度のつまらないものを、あるいはまた偽物を、良しとするのか。落ち着いて、自分に問い直してみるとよい。あなたの上にもたらされた神の恵みは、そんなに貧弱で無視できるようなものであるのか。それは、命を左右するもの、命を懸ける値打ちのあるものではなかったのか。
 
神からの呼びかけがあっても、耳を塞いでいるようであってはならない。心を閉ざすことは、信仰とは真反対のことであろう。神の前に、あなたはどうなのか、と問われているのが、聖書から教えられる「大切なこと」であったはずではなかったか。
 
カルト宗教に共通な手法のひとつに、他からの情報をシャットアウトさせるというものがある。その組織の外からくる情報をすべて悪魔からのものと思わせるのである。決して「自己吟味」というものをしない、させない。
 
もっと広く、良いものを知るとよいのだ。自分たちの狭い世界を、少しでも客観的に見ることができたら、如何に貧相でつまらないものであるのか、気づくことができるだろう。如何にそれが立派なものだと思い込まされていたか、また自ら思い込んでいたか、気づかされることだろう。
 
後で、あのとき目覚めていればまだよかった、と悔いることもあるのがこれまでの人間の歴史であった。が、しょせん一時的なものであり、またもや目覚めないで未来を破壊することを、正しいと主張してやまなくなる。
 
それほどに、目を覚ましていることは、難しい。今日もまた、誤った道が始まろうとしている。大勢の「正義」が、取り返しのつかない過ちへ、どっと走って行く。そして、自分ではその間違いに気づくことはなく、あまつさえ、正しいこと、めでたいこととして自己義認するのであるから、どうしようもない。



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