受け取られ方を考慮する

2023年6月2日

大きな事件が起こり、初期の供述で「悪口を言われたこと」が動機の一部であるような報道が流れた。本事件そのもののことに何か口出ししようとするつもりはない。そこで、もっと一般的なこと、あるいはまた別の例だとして、お聞きくださればありがたい。それでも、何らかの形で触れることになるわけで、特に本事件で被害に遭われた方々やその関係の方々については、何をどう触れてもいたたまれないことだと思うので、申し訳ないという思いで一杯である。
 
自分の悪口を言われることは、愉快なことではない。そうでなくても、陰口をたたかれているのではないか、と疑心暗鬼になることもあるわけだから、まともに、誰かが自分の悪口を言っているのを聞くと、怒りや悲しみなどに包まれるのではないかと思う。特に、自分が信頼していたような人の口からそれが出たことを知ると、裏切られたとか騙されたとかいう思いに支配されてしまうかもしれない。
 
ではその「悪口」とは何であろう。情況によっては、褒め言葉であっても、「悪口」と受け取られる可能性がある。「皮肉」というものもあるからだ。「ええ服着てはりますなぁ」の言葉にも、様々な意味が含まれ得ることについては、いつかお話ししたことがある。文字通り褒めることもあるだろうが、「服は褒めましたえ。人間は逆どすなぁ」の腹があることもある。そのときには、酷いこと言うな、と立腹するのではなくて、「おおきに。そやけど中身が全く伴わんのですわ」と笑顔で返すような「粋(関西なら[すい])」な対応をする社交場でありたいわけである。
 
言葉は難しい。傷つけるつもりなどなかったのに、相手が傷ついたという経験は、ひとの心を想像できる人ならば誰にでもあるだろう。そんなつもりで言ったのではないのに、と後から気づいても、口から出た言葉はなかったことにはできない。もう遅いのだ。言われた相手は、深く傷つけられた心をもち、それが恨みに変じていくことさえありうる。
 
私も自分が嫌だった。私は冷たい心の持ち主で、相手の感情を考えることができなかったのだ。自信満々に自分が「正しい」ことを言うことが楽しくて、ひとがその言葉に傷ついていることにさえ、気づいていなかったのである。そのことに気づいたのが、聖書との出会いによってであった、という事情がある。もちろん、いまはひとの心が分かりますよ、などと言っているのではない。依然として、無邪気にひとを傷つけて回っていて、しかもそれに気づいていない、という可能性がある。ただ、可能性がある、ということだけは想定できるようになったところが、進歩だろうとは思っている。
 
ひとの舌は制御が利かない。そのことを戒めている聖書が、新約聖書のヤコブ書である。が、結局必要なものは「愛」であり、その「愛」は、人間が自らつくりだすことはできないものだ、というのが、聖書が教えるところなのだろう、と私は考えている。
 
人間の舌は、よくない言葉を吐いてしまうものなのだ。それを前提としてみたい。人間社会で、ひとの言葉をすべて悪意に受け取り、恨み辛みを展開させていく、というのは得策ではないと思うのだ。だから、互いの「信頼」が望ましい。よし悪意から言葉が発せられたとしても、「赦し」を起動することによって、悪のループに陥ることを免れることができるだろう。「信頼」は聖書で「信仰」とも訳されている言葉である。こうして、ここでいま「 」で示した言葉が連なること、それを聖書の記者は神から教えられ、そして私たちに伝えてくれているように思う。
 
しかし、この輪の中に入りたくない人も、現にいる。入れない人、と言ってもよいだろうか。そのときには、たとえ真心で相手が褒めていたにしても、「悪口」と受け取ってしまうことになる。特に起こりやすいケースとしては、「ユーモア」というものがある。「ユーモア」は、余りに見たままの描写をするだけではなく、少し外すことによって、笑いを誘うものである。ユーモアの才能はひと様々であるが、自分に向けられたユーモアを、悪意に受け取るタイプの人が、実際にいる。
 
とても自己愛の強い人がいたとしよう。自分が可愛いばかりでなく、自分がすべて正しいと思い込んでいる。他人はすべて能力がなく、特に自分と意見の異なる人はカスのように見なしている。ツイートで、バカだ最低だと攻撃を続ける。偉人と人が称すれば、そのスキャンダラスな点をひとつ挙げて、こんな奴なのだ、とねちねちツイートする。しかし、自分にもこんな悪いところがある、などということは一度たりとも口にしない。自分が加害行為をしていても、常に自分を被害者だとしか見ていない。反対意見には、高いところから違うよとせせら笑い、自分が正しいと教えてやる口調である。時間があればこうしたツイートに時間を費やしてばかりで、気を晴らしている。
 
こういうタイプは、ほんのわずかでも、自分のことを否定するようなことを言われたら、腸が煮えくりかえるほどに憤りに燃え、いつまでも根に持つであろう。そして何か機会があると、自分にそんなことを言った相手に復讐を敢行することになる。その「否定」というものが、決して否定ではなく、「ユーモア」であっても、対応は同様になり、何か機会があったら相手に復讐心から、こてんぱんにしてやろうと考えている。あるいはまた、その機会を自ら作ろうとさえするだろう。
 
「悪口を言われた」という当人の意識は、実際には「悪口」ではなく、「ユーモア」である場合もある。ひとの言葉は完全なものにはなれないものだから、当人の意識が歪んでいる場合は、当人にとっては、世界最悪の自分への攻撃と思えてしまい、それを修正することさえできなくなってしまう、そんなケースもありうるのである。
 
もうどうにも、防御しようがない。このようなタイプの人は、これだけ多くの人間がいるからには、たとえ少ないにしても、一定割合でいるのだろうと予想される。私はそうした攻撃性はなかったが、何かの間違いでそのようになっていく可能性は秘めていたように思う。それが、聖書に出会って、逆にそうした考えの人のことを考えることができるようにもなった。
 
現実の誰かと、「対話」をすることが貴重であると思う。哲学研究室では、そんな「対話」が遠慮なくできた。あれは大きな意義ある経験だった。教会でも、聖書に関して、牧師に対してでも、仲間に対してでも、「対話」をすることができた。それらは、「論破」するための自己顕示とは関係がなかった。相手を知るためでもあったが、なによりも真理を求めるための営みであった。
 
しかしそうした「対話」の機会に恵まれない人もいる。本音を言ったらとんでもない扱いを受けるかもしれないとの恐れがある。信頼関係のないところで、迂闊に真面目な話などできない現実がある。悲しいけれど。そして親しみをこめて穿ったことを言えば、聞く相手によっては「悪口を言われた」と思い込まれることさえある。世知辛い社会である。
 
そんな中でも、聖書は、いつでも対話につきあってくれる。祈りを通して、神はいつでも対話に応じてくださる。聖書や祈りは、自分を絶対視することの誤りを教えてくれる。自己愛の隘路を解放してくれる。もちろん、自己愛のタイプが酷いと、聖書をすら自己愛の道具のために利用することになるかもしれない。人間の罪業は、奥深い。聖書から愛と信頼の世界が始まることを、願ってやまない。



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