教会と命

2023年5月29日

ある方と、この世で最後にお会いしたのは、ホスピスの部屋だった。どこが悪いのか分からないくらい、しっかりしていらっしゃった。だがそのからだの中には、蝕む者が巣くっていた。
 
終始笑顔で接してくださった。確かに、そういう方だった。共に祈るひととき、私の目に涙が途切れることはなかった。
 
しばらく後、ひっそりと、世の命を全うされたことを知った。教会でなく、ホスピスでの葬儀であったと聞いた。
 
その教会は、長らく無牧の時期を過ごしていた。つまり、牧師という立場の人がいない時が長かった。その方は、教会の建物近くにお住まいだったこともあり、ご夫妻で、無牧の間、教会を守り続けたのだった。礼拝を、まさに守った。同志とともに、牧師が与えられることを祈る日々だったと思う。
 
だいぶ経って、若いよき牧師が与えられた。ご夫妻はほっとしたことだろう。その間に、私は引越したためにその教会に関わった。だが、しばらくして、その牧師は使命を与えられて遠い地に移ることとなった。代わりの牧師も、途切れなく招く手筈となった。
 
ところが、この新しい人は、やがて、何かおかしな様子を見せ始める。親子間で何か心理的な問題を抱えているのではないか、と後に推測できた。ノーマルな信仰をもつ者からすれば、かなり違和感を覚える人物だった。ずいぶんと甘やかされてきたようであったが、心の弱さは隠しきれなかった。聖書の理解のあまりの偏りと、本人の救いの意識に問題が見られること、またひとあたりの態度などに耐えられず、私はその教会を離れた。
 
もちろんかのご夫妻は教会に居続けたけれども、その教会では葬儀を行わなかったと聞いている。事実どうであったか知らない。が、もし本当だとすると、守り続けた教会だったのに、残念な思いだったに違いない、とも思った。
 
自分が死んだ後には、誰がどのようにしようと、ある意味でどうでもよい話ではあるのかもしれない。しかし、神の命の言葉を語ることのできない者の手によって送られるとすると、あまりに自分が惨めではないか。家族もたまらないだろう。
 
かの教会は、ある意味でその新しい人を招いたことを、後悔したのではないかと推測する。しかし、一旦引き受けた人は、犯罪などを起こすようなことがなければ、辞めさせることはなかなか難しい。しかも、そうすればまた牧師がいない状態にもなる。あるいは、その命のない説教を、キリスト教だと思い込んでしまったような人たちには、何の問題も感じないのかもしれない。
 
そのプロセスも、私は分からないわけではない。教会というところに最初に足を踏み入れたとき、私はもう神の前に打ちひしがれた状態でもあり、聖書のこともまだ十分に自信をもって知っているとは言えなかったので、おかしいことをおかしい、と感じる心を抑えつけていたのだった。その教会の教義について、はっきり異様だと確信するためには一年近くかかった。だから私は、カルト宗教にのめりこんだ人の気持ちが、少しだけだが理解できる。
 
しかし、こうしたおかしいことは、決してそこだけではなかった。否、私が行くところ行くところ、そうした奇妙な現象が何らかの形で起こり、あるいは人間臭い思惑ばかりで、聖書の説き明かしというものがそもそもなされないような場面に出会うのであった。
 
理想を追い求めるというわけではない。だが、せめて聖書から良い知らせを語って戴きたい。命の言葉を届けて戴きたい。それのできる人が語る講壇であってほしい。聖書の中で、神に敵対するような者たちの振舞いが溢れているだけの、名前だけの教会が、少なからずあるのである。困ったことにこの動きは、当人たちが全く気づかないか、あるいは何人かがうっすら気づいても流されてゆくことに、助長される。勇気を出してそれを食い止めることができたら、実に大きな仕事をしたことになるだろう。
 
悲観的かもしれないが、聖書の記録を見る限り、多くの人間が、その悪い流れに加担している。それが人間というものなのかもしれない。



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