【メッセージ】霊とキリスト

2023年5月28日

(ヨハネの手紙一4:1-6, ヨブ5:4)

イエス・キリストが肉となって来られたことを告白する霊は、すべて神から出たものです。あなたがたは、こうして神の霊を知るのです。(ヨハネの手紙一4:2)
 
◆霊への関心
 
「心霊写真」という言葉は、いまでも通用するようですね。小さいころ、興味がありました。夜眠れなくなるくらい怖がりなくせに、特集が組まれた雑誌は覗いてみたいのでした。これはいかにもつくりものだな、と思えるようなものもありましたが、うっすら人の顔が写っている写真なんかは背筋が凍るような思いがしましたし、あるはずのない腕が写っているとなると、説明を受けた後で初めてぞっとすることもありました。
 
UFOの目撃談もありました。宇宙人に連れ去られた話や、宇宙人を捕まえた写真なども、盛んに掲載されていました。先般ご紹介しましたが、『亜宗教』という本が、そうしたものの分析をしていました。インチキばかりである前提での批評として、こうした騒ぎはなかなかなくなるものではない、とされていました。
 
聖書でも「幽霊」が出て来ます。水の上を歩くイエスの姿を見て、弟子たちが「幽霊」かと思った、というような話です。え、それは幽霊が出たという記事ではないだろうって? 確かに。しかし、弟子たちがそのような現象を見て「幽霊だ」と思うこと自体がポイントです。「幽霊」という概念があったのです。いまの私たちが思うのと同じなのか違うのか分かりません。少なくとも科学的な分析を施すことはなかったでしょうが、「幽霊」という存在が言葉になっていたわけです。
 
聖書には、もっと幽霊らしいものの記事もあります。イスラエルの初代の王サウルは、自分を任命した師匠のようなサムエルを喪い、不安でした。そこで霊媒師の許を訪ね、「サムエルを呼び出してくれ」と頼みます。しかし、イスラエルの律法では、霊媒は禁じられていました。それをサウル王自身が破ろうとするために、霊媒の女との間で一悶着ありましたが、命の保証をもらったことで、霊媒師はサムエルの霊を呼び出します。そしてサウルは、そのサムエルとしばらく話をするのでした(サムエル上28章)。
 
そう。律法には、霊媒が禁じられています。
 
男であれ女であれ、霊媒や口寄せをする者は必ず死ななければならない。その者らを石で打ち殺さなければならない。血の責任は彼らにある。(レビ20:27)
 
このような規定は何カ所かに書かれていますが、「霊媒や口寄せのもとに赴いてはならない」(レビ19:31)のように書かれていると、霊媒師なるものが現実に存在していることが、逆に証明されているようにも思われます。
 
霊とは何でしょうか。神のある側面からの呼び名は「聖霊」とも言いました。聖書の中でも、それは「聖なる・霊」と2語で書かれています。そうではない「悪霊」にも沢山言及されており、時にイエスと会話をすることもありましたから、「霊」という広い捉え方のできるものが、人々には考えられていたであろうことが分かります。
 
ヘブライ語からの伝統で、その「霊」を表す語は、同時に「風」や「息」を表す言葉でもありました。ですから、聖書で「風」と訳してあったり「息」と訳してあったりしたとき、それを「霊」と読み替えても、誤りとは言えない、と考えることもできます。訳者もまた、どれを日本語として出してくるか悩んでいるのです。つまり、そのうちのどれにしたかは、ひとつの解釈だ、ということになります。
 
聖書の中では、神を信じたのは、霊の働きだ、というようにも捉えられています。日本だと「狐憑き」というものが知られていて、何かに取り憑かれたような現象のときに、昔からそう呼ばれていました。新興宗教の開祖も、よくそういうことが発端となっています。「科学」を標榜する新興宗教ですら、自分の思いつきを何でも「霊」が語ったというようなことにして、「霊」を自在に操るようなことをしていました。
 
◆五旬節
 
先に挙げた「聖霊」は、キリスト教信仰においても重要な存在となっています。もちろん写真に写りはしませんし、科学的に検証されるような対象でもありません。神のひとつの現れのようなものでしょうか。それを「神」そのものだと呼んでも間違っていない、そういう存在とされています。
 
その聖霊が最初に大々的に降ったことを記念する機会を、キリスト教会はもっています。それは、神と人との関わりにおける、新約の三つの重要なポイントのうちの一つです。その三つとは、まずキリストがこの世に現れた降誕節、次にキリストの十字架と復活を覚える復活節、そして神の霊を受けた弟子たちが変化して、教会がスタートした五旬節です。
 
今日の礼拝は、その五旬節を覚える礼拝です。ギリシア語では「50」を表す語に由来する「ペンテコステ」という表現が使われていますが、これはクリスマスやイースターに比べると、日本において人口に膾炙するには至っていません。過越祭から50日目、麦の収穫を祝う、歴としたユダヤにおける祭りです。日本でいうなら「麦秋祭」とでも言いましょうか。このとき、イエスの弟子たちが集まっているところへ、大々的に聖霊が降りました。その霊を弟子たちは受けて、がらりと変化します。この日から、私たちが呼ぶ「教会」がスタートした記念日です。そのため、教会の歩みの歴史の最初について語られることがしばしばあります。
 
キリストの復活を祝う「復活節」は、「過越祭」のときでした。それは陰暦に基づくために、太陽暦では日付が定まらず、移動祝祭日となっています。ここから50日目という「五旬節」も、毎年移動することになります。キリスト教会では、この礼拝を「ペンテコステ礼拝」と称して大きな節目とし、教会の三大祝祭として扱いますが、先ほど申しましたように、一般には殆ど知られていません。教会でも、あまり大きく扱わない場合が多いと思います。
 
この日に起こった事件については、使徒言行録の2章に書かれています。普通、ペンテコステ礼拝では、この箇所を読み上げ、またそこから説教が語られるのが通例です。大切なことです。ただ、いまここでは、直接その解説をすることは避け、別の角度から、私が与えられた恵みをお伝えしようと思います。
 
◆それではキリストとは何か
 
神の霊が劇的に降りてきた記事。これはやはりよく味わいたいものです。ぜひお読みください。使徒言行録の2章です。この霊を受けて、弟子たちが一変します。イエスが無惨な殺され方をしたときには、絶望に加え、身の危険も覚え、びくびくしていました。イエスが復活したことを知り、喜びましたが、危険性が去ったわけではありませんでした。しかしこの霊を受けてからは、変わります。大胆にキリストを証しするようになりました。
 
この豹変は、ルカの描き方にもよるのでしょうが、あまりに大きく変わったことが伝わってきます。この変化は、やはり何らかの形で神の力が与えられた、としか考えられません。いわば間接的に、神の霊の出来事を証明していることになります。聖書ははっきりと、聖霊を受けたため、と証言します。この霊は、神そのものであるとも言えます。イエスが、やがて霊が来ると約束したことに基づいている、とも言えます。
 
さて、ここで実験をしてみることにします。「思考実験」です。実際に薬品を使うようなものとは違います。「もしも」「仮に」ということで、ある仮定をして、そうするとどういうことになるか、想像してみるのです。神が霊という形で、直接人に影響を及ぼして、弟子たちを変えた、という記事がここにありますが、それだったら、人の救いというものも、これだけで十分ではなかったか、という問題を考えたいと思います。つまり、イエス・キリストの説明を入れなくても、神の霊を受けて弟子たちが生き生きと生きられるように変化した、とここでの描写は知らせているように見える問題です。いったいイエス・キリストは何のために必要だったのでしょうか。つまり、イエスなしでも、神は人を救うことができた可能性を、誰かが考えてもおかしくはないということです。
 
キリスト教が、キリスト抜きで成立する。それは定義上おかしなことになりますが、あながち奇想天外ということでもないかと思います。キリスト教と自称するグループの中でも、イエスを省く方向で教えを説くものがあります。聖書をそれなりに大切に扱うイスラム教にしても、イエスは預言者の一人としていると聞きます。それではキリスト者は、いったいキリストを、どのように捉えていると言えるのでしょうか。
 
そのために、少し遠回りになりますが、いまいちど霊のほうに気持ちを向けてみることにしましょう。
 
◆スピリチュアルと宗教
 
最初に挙げました、諸々の「霊」についての素朴な関心は、子どもの私にも感じられるものでした。もちろんそれらを、聖霊と一緒くたにするわけには参りません。実に、さまざまなものが「霊」と呼ばれています。世の中には、あまりにも沢山の「霊」があります。いったい、どれを信用すればよいのでしょうか。
 
キリスト教こそ「真理」です、だから私たちの言う「霊」こそが「真理の霊」なのです。そんなふうに、まず言ってみたい気もしますが、そんなこと、どの宗教でもどの教えでも、同じようなことを主張するのではないでしょうか。けれども、互いに、我こそは真理なり、と言い争っても、埒があきません。
 
さもムードをつくり、占い師のような恰好をして呪いでも称えれば、一端の霊能者になれるかもしれません。否、実際人をよく観察して占いの仕事をしている人は、なんらかの意味で人助けをすることがあるかもしれません。週刊誌や新聞に、毎回占い、あるいは運勢などという名目で、何月生まれだとか何座だとかいうほんの幾つかのパターンですべての人が分類できるはずもないのに、どうしてそうも世間は「占い」が好きなのでしょうね。
 
占いばかりではありません。パワースポットだとか、心霊現象だとかを喜んで利用する人々がたくさんいるわけですが、そこに「神さまは」と話をすると、「それは信じられない」「宗教はおかしい」などという反応が返ってくるというのも、不思議でなりません。
 
かと思えば、開き直ったかのように、「神さま、信じるよ。スピリチュアルに興味ありあり」などと言ってはまる人々も、大勢います。大型書店に行きますと、「宗教」の棚の何倍ものスペースが、「スピリチュアル」または「精神世界」という見出しになっています。それはそれはたくさんの本が並んでいますし、そこに立ち止まる客が後を絶ちません。
 
それでも、いわゆる「伝統宗教」には魅力がないらしいのです。組織めいたものが嫌だ、という声もあります。何か足を踏み入れるのに勇気があるのかもしれません。スピリチュアルは個人でも同好会でも気軽にできるのに、伝統宗教となると、やはり一大決心が必要であるようです。
 
これに対する言い訳であるかのように、時折教会側が、「教会は敷居が高いから、なんとかしなければ」というような話をすることがあります。いやいや、その言葉はいけません。平気で昔から使われているし、いまもおおっぴらにそう言っている集いや問いかけがありますが、もうそろそろそのような失礼な恥ずかしいことは止めて戴きたいものです。
 
言うまでもないのですが、実際誤解が激しいケースがあるので、敢えてうざったい説明を致します。「敷居が高い」という言葉の意味は、「不義理があってその家に行くことやその人に会うことがやりにくい」という様子を表す言葉です。つまり、「教会は敷居が高い」というのは、一般の人が教会に何か悪いことをしたものだから、申し訳なくて教会に行くことができない、というような言い方をしていることになります。失礼な話です。訪ねられる側が使う言葉ではありません。こんな失礼で高慢な言い方を平気でしていること自体が、教会とはどういうところであるのか、世に示していることになりそうです。いくら、言葉は変化する、などと言ったところで、失礼極まりないことであることに違いないのです。
 
それはともかく、伝統宗教を求める人が極端に少なくなっているのは事実です。キリスト教会に限りません。仏教寺院もかなり深刻だと聞きますし、地方神社も困り果てているようです。他方で、「カルト宗教」が社会問題化もしていますし、よけいに「宗教は危ない」という認識が一般化しているとも言えます。
 
ひとつには、日本において、「宗教教育」が公的に全く無いところにも問題があると思います。宗教を教え込むのではなくて、宗教というものを知る機会が全く子どもたちに与えられないのは、カルト宗教を考えると、非常に危険なことではないでしょうか。いま「宗教2世」と呼ばれる人々、そしてその社会問題は、私たちも避けて通ることができない重大な問題であり、またそれで必要以上に怯んでしまうのも、これまた私たちにとり大きな問題となります。
 
◆ヨブ記から
 
さて、聖書テキストをとことん無視するかのように、ここまで来てしまいました。遅くなりましたが、まずヨブ記をお開き致します。ヨブ記は、気をつけて読まねばなりません。不幸を背負い込んだヨブは、決して神を呪いはしないのですが、見舞いに来た三人の友人たちと、意見が合いません。神をどう理解するかについての対立が、ヨブと、友人一人ひとりとで議論が交わされます。立場が違うせいもあるかもしれませんが、互いに相手と気持ちが通じることがありません。いったいどの主張が適切であるのかどうか、傍で見ている私たちには、なんとも分からないのです。
 
従って、ヨブ記から引用するときには、それを教義であるかのように扱うよりは、それが私たちへ問いかけられている事柄であるとして、私たちもよく考えてみるための問題であるとして受け止めてみたいと思います。
 
まず、気をつけておきたいことがあります。災害であれ、身の上に及んだ不運であれ、当事者と、取り巻く者たちとの間には、深い溝がある、ということです。周りは、正義感からか、何か言わねば間がもたないとでも思うからか、よけいなことを言いがちなのです。「頑張ってね」の一言が、苦しんでいる人の首をさらに絞めるようなことにもなりますし、「まだ運がよかったね」などと慰めたつもりが、刃を突き刺すような言葉になることもあります。
 
そして、「寄り添います」などという、無責任な言葉で自分を優しく見せようとすることが、どれほど残酷であるか、善人になりたい側の周囲の者には、分かりません。ヨブの友人たちも、友情篤いのです。不幸に見舞われたヨブのところに一週間、なんと言葉をかけてよいか、じっと座っていた、というのです。しかし、一旦口を開くや否や、ヨブの考えを責め続ける者たちとなりました。今日はヨブ記から、ひとつの節だけを取り上げました。ヨブに対して、エリファズという友人が論じます。
 
人はどうして神に対し正しくありえようか。/女から生まれた者がどうして清くありえようか。(ヨブ15:14)
 
人は神に対して正しくありえない、というところまではよいのですが、いやはや、「女から」だから清くないのか、などと、まるで女性差別を助長するかのような表現に、眉をひそめる方もいらっしゃるだろうと思います。当時はそうでした、などと言っても解決になりませんが、ともかく人は完全に正しいということはありえないのだ、という意味を押さえておくくらいで、ここは勘弁してください。誰だって、女から生まれるのですから。
 
◆キリストは必要
 
ただ、この「女から生まれた者がどうして清くありえようか」という文で、私には、ふと別の風景が浮かんできたことを、お伝えしておかなければなりません。決してこれはヨブ記の「正しい」読み方ではないと思いますから、私の勝手な妄想だとして聞き流してもらっても構いません。
 
しかし、考えてみれば、そもそも新約聖書というものは、旧約聖書をかなり自由に解釈してできたものです。きつい言い方をすれば、妄想めいた理解を重ねているとも言えます。旧約聖書を記した人々からすれば、「そんなつもりで書いたのではない」と言うかもしれないような理解を以て、「これはキリストのことを指しています」と引用するのです。旧約の中に、キリストがちゃんと描かれている。それが、新約聖書という証言を遺すことになった動機である、とも考えられるわけです。
 
人間は清くない。誰ひとり、完全な者はいない。罪を犯さぬ人はひとりもいない。新約聖書のみならず、旧約聖書も、人間の素晴らしさなどを描こうとはせず、ひたすら人間の悪さばかりを証言しているようなものでした。
 
ここで「人間」というものを、レトリック的にかもしれませんが、ヨブ記は「女から生まれた者」と表現しています。それがイコール「人間」であるというのが当然の読み方なのですが、私たちは、特別な方をひとり知っています。毎年多くの一般の人々も大騒ぎする、「クリスマス」の出来事です。
 
イエスは、聖霊によって宿り、生まれたのでした。が、それでもマリアという母から生まれました。「女から生まれた」のです。そしてイエスは、その中で唯一の例外でした。「正しく、清い」方でした。
 
イエス・キリストが肉となって来られたことを告白する霊は、すべて神から出たものです。あなたがたは、こうして神の霊を知るのです。(ヨハネの手紙一4:2)
 
「肉」とは「人」のことでしょう。イエスは人となってこられたことを告白することができる、そこに神の霊が働いているというのです。神の霊とは何たるかは、そのようにして初めて知ることができるのだといいます。イエスが人となったと知ること、それを口から告白すること、それがないと、神の霊が及んだことの証拠にはならない、とまで考えて然るべきなのです。
 
やはり、キリストは必要なのです。イエスが人となった。「人となった」ということは、元来「人」ではなかったわけです。「神」だった、とするよりほかありません。いやいや、そんなことはない、などと思いたい人は、どうぞそのようにお考えください。私たちは、そして私は、そのようには考えません。イエスは人であり、また神である方だ、と告白します。そんなことができるはずがない、という反論があろうとも、神にはできるのだ、としかお答えできません。
 
◆霊とキリスト
 
3:イエスを告白しない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。あなたがたはその霊が来ると聞いていましたが、今やすでに世に来ています。
 
霊を見分ける必要があることに気をつけて、聖書に向き合ってきました。確かにいま「すでに世に来て」いる、まやかしの霊がある、と遙か昔から告げられています。それを聞くと不安になります。私たちの周りにも、まやかしがあるというのですが、それらに騙されることを恐れてしまいます。が、その心配は、必要以上にはいらないのだと思います。
 
4:子たちよ、あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。あなたがたの内におられる方は、世にいる者より大いなる者だからです。
 
私たちは「勝ちました」。それは昔勝ったんだよ、という程度の意味ではないような語になっています。いまも勝っている、勝ち続けていることが、生き生きと伝えられるような言葉なのです。すると、すぐに次の箇所を思い起こす人がいるだろうと思います。
 
これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。(ヨハネ16:33)
 
私たちは、単にこの世から、あるいは人間だけの世界から生まれたのではない。聖書は信じる者をそのように慰めます。神から生まれた、ということに語弊があるならば、神の霊を受けて新しく生まれる恵みに与った、とでも言いましょうか。イエスの死と共に私たちも死に、イエスの復活と共に私たちも新たな命を生きる経験をしました。その意味でも、私たち信じる者は、イエスに触れたのです。イエスに出会ったのです。間違いなく、神の霊を受けているのです。
 
そこから離れさせようと攻撃する輩がいます。悪魔です。私たちは、そこから離れさせられないように、聖書の言葉を、頼りにすべきです。人間は弱いので、惑わしの霊に騙されることを念頭に置く必要があります。イエス・キリストに間に立ってもらって、守ってもらわなくてはなりません。
 
そのために、つまりそこにイエス・キリストにいて戴くために、イエス・キリストと出会って戴きたい。それは、先般「福音書」をひとつの本としてテレビのシリーズで紹介した講師が、勧めた言葉でした。その講師は、口では「教会」のことは言いませんでしたが、イエス・キリストに出会うことについては語っていました。
 
その講師の声に私が付け加えるに、「教会」に行くことは、絶対の条件ではない、というわけです。確かにそれは助けになります。けれども、教会に行くことが救いの条件ではない、ということです。実際に教会に行ったとき、不幸にもそこが霊的に乱れたところであるかもしれません。人間臭い集まりも、正直あります。しかし、イエス・キリストは、真実なお方です。どこにでもいてくださいます。どこででもお会いすることができます。聖書を開くと、いっそう出会いやすくなります。イエス・キリストは「言葉」という形で近づいてくることが多いからです。テレビ番組の講師も、そういうことを胸に置いていたのではないか、と私は勝手に推測しています。
 
イエス・キリストその方に、関心を向けてくださることで、その方のほうから、あなたに近づいて来てくださいます。それは、もう信じているからそんな必要はない、などという理屈を蹴散らします。必要ない、と口にするその魂こそ、イエス・キリストから遠ざかっているのです。信者という肩書きがあろうと、教会員だとか牧師だとかいうメンバーシップをもっていようと、関係ありません。イエス・キリストに、私たちは手で、霊で、触れることが必要なのです。
 
初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの、すなわち、命の言について。(ヨハネ一1:1)
 
「命の言(ことば)」とはキリストのことです。これは今日お開きしたヨハネの手紙第一の冒頭です。このように始まっていました。ひとは、このイエス・キリストを通してこそ、神の霊を知るのです。「知る」とは全人格で交わることです。これが、霊的な体験であり、人間の神髄なのです。



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