苦しいだろうに

2023年5月27日

「それにつけても 金の欲しさよ」を上の句につけて狂歌にする遊びがある。検索してみると、江戸時代からあったとか、それ以前ではないかとか、真面目な文献から引いているのが出て来た。上の句が何であろうと、脈絡なくとも暴力的に「それにつけても 金の欲しさよ」とつければ形になって面白い、という遊びである。
 
たとえば礼拝説教でも、それまで辿った当たり障りない聖書の解説の内容ともあまり関係なく、最後に唐突に「イエス・キリストを信じましょう。希望をもちましょう」という感じで終われば説教の形になる、という笑い話もありうるであろう。
 
「希望」というと、信仰の話らしくなるが、「希望をもちたいと願うのは、希望を失いかけているときである」と、心理学者が教えてくれている。空回りするだけの空虚さの中で「希望」を繰り返す人は、精神的に危ないものを含んでいる可能性があるのかもしれない。
 
そんなものを毎回聞かされていてよく耐えていられるなと思わせるようなタイプの人々も、世の中にはいるかもしれない。説教に何も関心がなければ、そうした形で満足するのだろう。だから耐えているのではなくて、そもそも説教に何も期待していないし、何の意味も感じていない、ということなのかもしれない。
 
だが、もしそんな話をする人が本当にいたとしたら、私はむしろその人が大丈夫なのか、と心配してしまう。本人が、不本意な話を毎回繰り返していることに気づいているかどうかは別として、自分の話しているのは説教でも何でもない、くだらないコピペの作文だ、という良心の呵責に耐えられないのではないか、と思うからだ。
 
いやしくもクリスチャンと名のっていれば、自分に嘘をついて人を騙していることには、耐えられないはずである。救いも召命もないのに、礼拝説教などしている、というような意識があれば、精神が破綻しないだろうか、と心配しているのである。
 
人間、過去に犯した罪も意識の中で苦しいことがあるものだが、幸いイエス・キリストを信じるということは、罪が赦されている、という救いを受けている。ただ、いまもなお自分が罪として苦しむようなことを、自覚的に日々続けてやっているとしたら、それは奇妙なことである。
  今は流行らないが、以前だったら「自己欺瞞」について問うようなことが、文学や思想の世界では多々あった。クリスチャンとして、自分が神の言葉を語る資格などないということを知っておきながら、人々を騙すようにずっと語り続けるなどということは、自己欺瞞どころの騒ぎではないだろう。神をも欺瞞の中に引きずり込むようなことなのであるから、聖書がそういうことについて、どんなにか呪いの言葉を浴びせているか、知らないはずはないのである。
 
そうは言っても、建前と本音とが何らかの意味で混在していることは、うかつには責められない。講壇から、特定の信徒のことを揶揄めいて語るというようなことをする人がいたという話を聞く。人間としては言いたくなる気持ちも分かるが、そうした本音を明かす場でないという建前は守るべきだ。それは欺瞞ではない。
 
だから、言ってはいけないことをどうしても言いたいとか、自分はダメだという弱さを告白したいとか、講壇では語れないことがあっても、仕方がない。それはよき理解ある配偶者の前で話せるなら、ずいぶん楽になるだろう。あるいは本質的なことだが、そうしたことはすべて神に申し述べるべきである。v  
しかし、その神に対して嘘をついているとなると、もはや誰にも打ち明けられないでいるわけだから、たまらないだろうと思う。一人自分が、自分の嘘を知っていながら続けているなどということは、気が変になりそうになるだろうと想像する。
 
普通に考えても、良心の呵責というもので、辛いだろうと思う。もしその良心というものも棄ててしまった者がいたら、どうだか分からないが、クリスチャンという者は、さすがにそれを棄ててしまうことはないだろう。だから、そうなると苦悩の中にあるに違いないと思うのである。
 
僧侶も時に犯罪者として捕まったというニュースが流れる。牧師も時々ある。敢えて名や事件を挙げることはしないが、メディアでよく知る人であったり、直接お会いしたことはないが身近な人とのつながりのある人であったりして、大きく報道されたこともある。それらは、交通事故だとか、何かつい魔が差したというようなものではなく、十分計画していたり、長期にわたってねちねちと続けていたりしたものであった。
 
私は、そうした人の体験談を聞きたいと思う。匿名でも何でもいいから、いったいどんな心境でそれをやり続けていたのか、自己分析を教えて戴きたいと思うのだ。明らかにとんでもなく人の心を傷つける、犯罪要件を満たしたことをずっと続け、その間講壇やメディアで福音を、同時に語ることができたのか、その心理を語って戴けたら、と願うのだ。
 
何故なら、そのような心理経験は、誰でも簡単にもつことができないからである。その貴重な経験は、キリスト教界のためにも、役立つだろうと考える。どのような心理状態で、どこからそうなるのか、それを止めるにはどうすればよかったのか、貴重な資料となるはずである。
 
もちろん、その被害者への配慮を怠ることはできない。受けた心の傷は治せないものと見なして、とにかく慎重にあたらなければならない。十分な配慮の中で、その資料を提供したことで、よかったね、というような事態にならないように気をつけなければならない。しかしまた、恐らくその人に関係するキリスト教団体は、除名や破門といった形で、当人とは縁を切っているものと思われるが、そこに何らかの意味での「赦し」というものが必要ではないか、という気もするのだ。その赦しの中で、本人も打ち明ける機会ができる。心理学的にでも何でもよいから、そのように良心が麻痺するようなことはどうして起こるのか、またどうすればそうならずに済むのであろうか、との研究が望ましい。
 
それは、教会にチェック機構を設けよう、とするだけの組織論で終わるのではなく、ぜひ魂の問題として、調査がなされてほしいと願うのだ。だから、それを語れる場や機会が、どこかにできないか、と思っている。
 
そうすれば、いま、偽りの言葉を語っているような人がいたとしたら、そうした人や、それを聞き続けている人々を、救うことになるかもしれない。もしかすると、当人が精神的に破綻することで、その家族や周囲にも、不幸が舞い込むかもしれないことを思うと、落ち着いていられないのである。
 
それとも、聖書にあるように、偽りの預言をする霊を主が送ったのだろうか。自分は全く正しいと勘違いして、良心を売り渡してしまっていたとしたら、苦しむこともないかもしれない。しかしそれは、さらに怖いことであるようにも思う。こうした提言をする私が非難されて片が付くくらいなら、まだましなのかもしれないけれども。



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