子どもたち

2023年5月23日

イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。よく言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(マルコ10:14-15)
 
「よく言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の国でいちばん偉いのだ。また、私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。」(マタイ18:3-5)
 
イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子どもを引き寄せ、ご自分のそばに立たせて、言われた。「私の名のために、この子どもを受け入れる者は、私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中でいちばん小さい者こそ偉いのである。」(ルカ9:47-48)
 
似ているところが多いという「共観福音書」において、それぞれ若干ニュアンスは異なるが、このように「子ども」を受け容れるイエスの姿が記されている。
 
子どもという存在を、条件なしにそのままイエスは評価している点に注目したい。子どもの「信仰」を褒めたのでもないし、子どもの「態度」がいいと言ったわけでもないのだ。ただ単に、神の国は子どもたちのものであるとか、子どものようになるとか、子どもを受け容れよとか言っているにすぎない。
 
だがよく見ると、それらの子どもは「神の国を受け入れる」のであり、「自分を低くする」のである、という説明も見られる。ルカだけが、端的に「子ども」とだけ表現しているようである。
 
いったい子どもとは何だろう。大人はすぐにその説明を考える。悪い癖かもしれない。そのように考えないことこそが、「子ども」であると言うことなのかも知れないではないか。
 
それでも、子どもへの憧れの思いを胸に、考えてみることはやめられない。
 
そもそも「子ども」という括りが西欧でなされたのは、近代のことであるという。私はまだ読んだことがないのだが、アリエスの『〈子供〉の誕生――アンシァン・レジーム期の子供と家族生活』が、その道の研究で有名である。かつては、コミュニケーションがとれる年齢になってくると、大人と同様に扱われ、酒も煙草も自由であったらしいとも聞く。からだは小さいが、立派な労働力なのだという。
 
教育らしい教育が与えられるのは、身分の高い家だけだったかもしれない。帝王学などという言葉があるが、教育格差は当然だったのである。いまの私たちとは意識が違うのである。しかし、金になるかどうかが子どもの価値を決めたり、奴隷のように売られる子どもがあったりするのは、今の世界でも多々あることであるはずだ。
 
親なのだから、子の命を完全に掌握しているとされる社会もある。かつては子を殺してもさして追及されもせず、動物同然に小さな子を扱っていてもあたりまえであったような常識だったと聞いても、決して驚いてはいけないのだ。最近は「宗教2世」という問題が起こっているが、それが咎められるような世の中は、きわめて新しい時代なのである。だから、その問題への解決方向も、人間たちはまだ模索している段階だと言える。何かしら、自分の思いつきや感情が唯一の正義であるかのように主張する傍観者がいるが、もう少し思慮深くありたい。
 
いま私たちの身の回りでは、小学生から中学生になるとき、子どもの扱い方が変わることが多い。学習塾関係でもたとえば小学生に向き合うとき、そこに親が同時にいる、という意識で対するべきである。中学生になると、背後に親は当然いるが、目の前の子どもと直接向き合う感覚が中心となる。
 
小学生にとって、親の判断は絶対である。もちろん個人の成熟度には差があるので、これは画一的に言っているわけではない。また、だからこそ、心の成長が早い子は、子ども扱いの強い親に対して自立心が生まれ、反抗しているように見えることも多い。ただ、生活面では親への依存が決定的であるため、現実的に親に対抗するようなことは難しい。
 
そうなると、結局親の判断に従うというのが、結論となってしまう。つまり、親の言うことに従うしかないのである。
 
もちろん、子ども自身の知識や認識の能力という問題もあるが、子どもは、自分の判断を信じ抜くことができないであろう。大人であり、自分を守護すると信頼している最大の存在である親の認識に及ぶことがないという前提もある。自分こそが正しくて親が間違っている、と強く言えるだけのものがない。
 
子どもは、自分の判断を信じ抜くことが最終的にはできないため、結局親の言うことに従わざるをえなくなる。後に自立への階段を昇り始めると、それは反抗という形で現れていくし、自分の見聞や思考が、広く高くなっていくことの現れであるといえるのだろうけれども、それでも、圧倒的に経験の多い親のほうが正しい、という理解は、どこかにあるのではないだろうか。
 
新約聖書のイエスは、神を父と呼ぶ。これは母ではなく父であるということなのか、それとも親という関係を父と一応読んでいるに過ぎないのか、解釈の余地はあるだろう。先に私が語ったが、「母の不条理」に比して、条理を重ねやすい父というメタファーが好まれた、と考えてみることも可能であるかもしれない。
 
子どものようになることが、神の国に入ることだ、とイエスが言っていたからこそ、福音書にそれぞれ掲載されているのだろう。その言葉が微妙に違っているのは、このことの理解について幾通りかあったことを暗示させる。ただ、「子どものように」というのが、「自分の判断を信じないで親の言うことをきく」傾向性を意味するケースがあるとすれば、確かにそれは、神に対してそうありたいというふうに思えることである。私たちは、どうにも子どもなのである。
 
いずれ自立して、自分で判断するようになる、という人間的成長をそこに当てはめるべきことは、一応遠慮しておかなければならないであろうけれども。



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