愛ファースト

2023年5月22日

黙示録の講解は、まだ始まったばかり。「天上におられるキリストの姿」という新共同訳の小見出しに対して、なぜ天上なのか、と説教者は疑問を付す。パトモス島にいたヨハネが声を聞き、振り向いた後ろにいた方がキリストであるとすれば、どこから「天上」が出てくるのか。あいにく、聖書協会共同訳でも小見出しは同じである。もちろん、小見出しは訳出した会社が任意につけたものであるから、それは「聖書」ではない。新改訳のように何も付けないのは無難だが、確かに小見出しがあると便利ではある。しかし、なんとも理解しづらく、ミスリードさせやすい小見出しである。因みにカトリックのフランシスコ会訳も小見出しをつけているが、「ヨハネ、幻を見る」となっている。果たして「幻」なのかどうかは定かではないが、これならまだ分からないでもない。
 
ただ、そこでヨハネが見た「幻」の姿は、説教の最後のための伏線となっていた。
 
黙示録1章の最後に、「七つの教会」へと書き送る手紙を書き留めるように、とヨハネは命じられる。だが待てよ。問題文の重要なところを読み落とすのは、なにも受験生ばかりではない。私たち聖書を命の言葉として読む者でも、肝腎なところを読んでいなかったり、思い込みのために別の読み方をしていることがある。聖書はきちんと読むべきである。
 
今日開かれた聖書箇所は、黙示録2章の最初の部分であった。小見出しは「エフェソの教会にあてた手紙」と出ている。が、本文は違う。「エフェソにある教会の天使にこう書き送れ」となっているのだ。
 
説教者は、まずここに固執する。ここにある七つの教会に向けられた手紙はすべて、その「天使」宛ての手紙なのである。人間宛てではなく、天使宛てなのである。そうすると、それぞれの教会には、天使がいることになる。主の教会であれば、天使がいる。これは由々しきことである。
 
へたに天使を見てしまうと、主を見たのだと慌て、混乱した記事が旧約聖書にはたくさんある。だが、不思議なことに新約聖書では、キリストの降誕にしろ復活にしろ、それほどには慌てない。天使は天使だと割り切っていられたのだろうか。そもそも神が人の前に出現するということがまずありえないように、聖書の記述が変わってきたために、無用な心配をせずに済んだということなのだろうか。
 
説教者はこのたび、語句の説明には立ち入らなかったが、「天使」とはそもそも「メッセンジャー」である。「使者」という日本語がほぼ対応するといえよう。英語はギリシア語の綴りを英語読みしたようなものであって、聖書のフィールドでは「神の使者」だということになる。
 
オカルトや精神世界、はてはファンタジーものでは、「堕天使」といった概念が人気である。聖書にも一定の根拠があるために、軽視はできない。私たち一介の人間が、神と人間との関係をなんとか説明しようともがいたための設定であるのかもしれない。そこで、イマジネーションそのものは愉しいものだが、決めつけはしないほうがよいだろう。それで、この教会を守る天使なるものがきっといるのだ、ということを信じている程度が幸せなのかもしれない。
 
「君はぼくの天使だ」というような愛の言葉もあるが、教会にとっても、教会を救う人物が現れることがある。映画「野のユリ」では、シドニー・ポワチエ演ずる青年が車の故障のために訪ねた宿にいた修道女たちが、青年を「神が遣わした者」だと喜び、教会を建てる手伝いをさせる。教会を手伝うとなると、京都では、地方から新しい学生信徒が来ると、たいへんな力になるのだった。
 
他方、教会に対して批判をもたらす人物も、そうした天使であるかもしれない。間違った方向に進むのを止めさせるとなると、これもまた教会を救うことになるであろう。そうした天使を蔑ろにするならば、もしかするとその教会からは天使が去って行くことにもなりかねない。私たちは、いろいろな場面で信仰を試される可能性がある。
 
さて、エフェソの教会の天使に送れと命じられた手紙の内容について、もちろん説教ではそれなりに触れなければならない。力のこもった説教であったが、それをすべていまここで辿るわけにはゆかない。一つひとつの説明を繰り返すよりも、説教者が強調した、「行いと労苦と忍耐」に少し触れてみよう。これはエフェソの教会の、褒めるべき点である。手紙の最初にまず相手を褒めるのは、手紙を読ませる常識である。その後に、批判するべきところを述べるのだ。今回は「初めのころの愛から離れてしまった」ということである。
 
私たちは、この2点を自らの胸に問い続けるべきであろう。おまえは「行いと労苦と忍耐」についてはどうなのか。こうした点は、キリストがちゃんとご存じである。自分で自分を買いかぶったり、自己愛に現を抜かしていたりする場合ではない。
 
当時は、キリストの道にあるというだけで、迫害を受ける情況だったと推測する。信じたからとて、なにもよいことのない時代である。だから、いまの私たちの社会環境とはまるで違う。もちろん、そのような厳しい社会に置かれているというキリスト者は、世界には確かにいる。その場の人々にとっては、黙示録のような聖書箇所は、生々しい現実そのものなのであろう。
 
愛から離れた、というのは、具体的には何も叙述がない。だが健全な魂の持ち主であれば、誰もが思い当たるだろう。ああ自分はだめだ、愛がない、と。私もまた、自分の罪に気づかされた最初のきっかけは「愛のなさ」だった。しかも、愛がないくせに、自分には愛があるなどと思い込んでいたこと、それを思い知らされたために、頭を殴られたのが決定的であった。このとき初めて、私の魂は健全な道に導かれたのである。
 
悔い改めよ。これもまた、ある意味で漠然とした指示である。しかし、自らの愛の無さを嘆き、悔い改めよの言葉をぶつけられたら、それはもう救いへのコースに確実に導かれたことになる。そのとき手紙は、もう一度「取り柄」を示す。褒めて、戒めて、最後にまた褒めるのである。これは教育的にも非常に効果的なものであることを、私は理解する。
 
その「取り柄」とは、「ニコライ派の者たちの行いを憎んでいること」だという。「ニコライ派」はこの先にあるペルガモンの教会の天使への手紙の中にも登場するが、実態は不明である。現代の教会でも、様々な聖書解釈や教義の違いがあるのに、文献もない大昔のそれについて、私たちが明確に知ることは無理であろう。
 
説教者は、この「行いと労苦と忍耐」と関連させて解釈する。これらに対立するタイプの考え方を呈したグループかもしれない、と。事の次第はさておき、改めてこれらの重要性に気づかされる。かつてのように、またいまも世界の或る場所でのように、迫害の嵐の中で耐えている信仰者は、もちろんそれらを持ち合わせているし、それらなしには生きていけないだろう。身の危険の及ばない安穏とした私たちはどうだろう。それでも、何かあるはずである。そして、疲れを覚えるはずである。
 
主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。(イザヤ40:31)
 
これは特異なようだが、この直前には、主は疲れないが、人間はすべて疲れるものだ、というような経緯がある。疲れるのである。
 
ギデオンはヨルダン川に着き、彼の率いる三百人と共に川を渡った。疲れきっていたが、彼らはなお追撃した。(士師記8:4)
 
疲れ切っていても、なお追撃できる。こうした聖書的な背景を踏まえて考えると、説教者が言った、「疲れるがそれでも疲れ果てることはない」という明るい宣言が、希望の言葉として光を投げかける。そして説教者は、そこにある本質的な欠陥を、「愛の無さ」に集約する。かの手紙が戒めたとおりである。
 
そして、厳しい指摘をする。「愛を失った教会は、教会の名に値しない」と。
 
ニコライ派のような、偽りの教えは、もちろんそうなるであろう。だが、一見偽りでないにしても、命をもたらさない教会もまた、その部類にきっと入ることになるだろう。そしてそこにこそ、巧妙な「偽り」が忍び込むことになるだろう。
 
「初めのころの愛」は、普通に理解すると、自分が救われたときの喜びのように捉えることができる。それも必要だ。それでよい。しかし、それだけではないだろう。「初めの」は英語なら「first」であるだろうが、それは時間的な初めしか意味しないわけではない。実際、ここでの原文には「ころ」に当たる言葉はない。「初めの愛」で十分なのである。
 
だとすると、「第一なる愛」「最高の愛」というニュアンスで受け取ってもよいはずだ。それは、神の愛、キリストの愛ではないか。あるいはまた、私たちが最も重要な愛だとすべきことを思い起こす。
 
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:36-40)
 
第二は、第2位なのではない。「これと同じように」である。私たちは、不条理な待遇で悲しい死に追いやられた人を思わずにはいられない。また、それは政府や一部の役人ではなく、私たちがもたらしたものだという悲しみを覚えずにはいられない。多大な費用をかけ、一部の為政者が集まり政治的な影響を与える成果を発表した背後に、平和の名を命を懸けて訴える人々が、全く顧みられなかったと憤る心を、遠くから眺めているようなわけにはゆかない。
 
教会を仲良し倶楽部のように利用し、なあなあの関係で過ごしてばかりいると、福音書のファリサイ派の人々どころではない状態に陥ってしまう。それはもはやイエス・キリストを愛しているなどとは言えない状態である。確かにそれでは、それを教会と呼ぶことはもうできないであろう。そんな自分に気づかされ、修正するチャンスが、このような聖書の言葉を突きつけられることによってもたらされる。幸いなことである。私たちは、いつでもこうした神からの言葉の投げかけを受け止めることによって、主の許に帰ることができる。否、帰らねばならない。イエス・キリストは、天上から高見に立って私たちを見ているのではなく、振り返ればそこにいて、教会の礼拝にもつねに共にいてくださるお方だからである。
 
なお、説教の末尾で、加藤常昭先生の近況を聞き、驚いた。目をお悪くしたことから、蔵書をあるところに寄贈することとなったというが、その量を聞いて、驚いたのである。私も本は、しょうもない本が多いけれども多数ある。だが、その量の足元にも及ばない。でも、図書館を利用しているから、それを含めたら、もしかするといくらか近づくかもしれない、などとも思った。但し、妻は、いま家の中にもそれくらいあるんじゃないの、と冷ややかだった。本が溜まるのは、目の上の瘤どころではないからだ。
 
ちょうどこの日の朝、NHKのラジオ「宗教の時間」で、加藤常昭先生の人生の語りの前半が放送された。一年ほど前に放送されたものの再放送なので、内容は記憶があったが、説教者がそれを踏まえて先生のことに触れたのかどうか、それは分からない。ただ、加藤先生の最新の説教の中で、イエス・キリストの名を口にせず神を語ることができないこと、教会の礼拝の場でイエス・キリストが待っていてくださること、それを伝えていたことから、相応しくそのエピソードを語ったことだけで、私には十分であった。



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