助けられるのは

2023年5月17日

8日の赤十字デーも12日の看護の日も、世間ではさして話題にならずに通り過ぎてしまった。もちろん、高々個人の誕生日に過ぎない。とくにアンリ・デュナンは、仲間からも外れて不遇な後半生を送ったし、フローレンス・ナイチンゲールも、看護活動そのものはごくわずかな期間しか経験していない。だが、二人の遺したものは、あまりにも大きかった。
 
二人のポリシーは、相反するところがあった。無償をモットーとするデュナンに対して、報酬の必要性からデュナンに同意できなかったナイチンゲールとは、同時期に活動したとはいえ、互いを支え合うという姿勢だったとは言えないことだろう。
 
だが、人間は、二人の意思をどちらも大切にするだけの良心を持ち合わせていた。
 
なんとか助けたい。この切実な思いは、まずは「現場」でものをいう。先般お伝えした「TOKYO MER」というドラマが与える感動も、そういう意味を含んでいるだろう。しかしそのドラマの中にも、「制度」という秩序を調えることを使命とする人物がいた。結局彼も「現場」に走るのだが、全体を管理する役割も、もちろん重要だ。医療現場の医師が命を救うのも事実であるが、病理研究をする医師も、結局多くの人の命を助けることになるからである。
 
しかし、助けられるのは今しかない、現場には、その緊張感がある。助けるのは自分しかいない。こうした自覚、現場にも管理側にも必要だといえようか。クリスチャンとして生ぬるい私自身、その自覚のなさに、恥ずかしさを覚える。それは、きっと私だけではないであろう。
 
安息日の規定がどうであれ、助けを必要とした人を助けた姿が、福音書に描かれている。イエス・キリストとは、そういう方だった。形だけの儀式や、自己義認の塊のような精神を、真っ向から否定した方だった。差し迫った現場で救ったのと同時に、すべての人を救うことも図っていた方だった。
 
私たちの思いつく「人助け」は、しばしば同時に自分のためでもある。それが悪いという意味ではない。人間に求められているのは、それでもよい。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)ということができるのは、イエスのほかなかったとも言える。が、そうとは限らないように思えることも、確かにある。
 
8日の赤十字デーと12日の看護の日と、5月は、静かに物思う時とすることを求められているような気がしてならない。



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