昇天と祝福

2023年5月15日

今週18日木曜日が、教会暦での「昇天日」にあたる。ルカの記録に基づき、イエスの姿が空に見えなくなったことに基づく。しかし、そこだけにこだわるよりも、この一連の出来事の中で最も大事なことは、イエスの復活である。
 
説教者の内容のレポートをする場ではないので、その軸になるところと、私の思いとのつながりについて、押さえてみたいと思う。説教者は常に、そのような「つながり」、あるいは「関係」ということに関心をもっている。あるいは、そこに目と心を注いでいる。
 
復活の主イエスと、あなたはどう関わっただろうか。それが問いかけとなる。あの弟子たちは、復活の主を確かな手応えで捉えられるかどうかを問題としていた。しかし、より切実な問題は、このメッセージを聴くあなたが、その手応えをもつことができるかどうか、である。
 
イエスを直に「見た」というのが、あの弟子たちの強みであったかもしれない。しかし、ルカ自身、あるいはこうした福音書を記した世代の者たちすべてが、イエスを直接には知らないでいたとするならば、復活の主を「見た」わけではない。だが、強い「関係」を確かにイエスと結んでいたからこそ、あれだけのことが書けたのだ。それを解明するようなことを私たちが狙うのは得策ではない。私たちは、そこにある問いかけを、自分へ向けてのものとして、受け止めなければならない。
 
私たちにも、その同じイエスが、共にいるではないか。イエスの復活は、私たちの目の前で起きた出来事ではない。だが、時間的に距離感は否めなくても、かつて復活したそのイエスが、いまここに共にいて、この私ともつながることができる、それが信仰の前提であり、また結果でもあるわけだ。
 
エマオ途上で二人の弟子の前に現れたイエスが、冗舌にキリストの出来事を語り聞かせたとき、パン裂きによって、二人の目が開かれた記事がある。その瞬間、イエスの姿が目には見えなくなってしまったのだという。ここはパラドキシカルな記事である。目が開かれたら、イエスが見えなくなった。
 
説教の中でこの点について、明るい指摘があった。それは、信じることができたなら、もう視力のようなもので見えるという必要がなくなるのだ、というような内容であった。そこにはすでに、確かな力がある。イエスが間違いなく、共にいる。それを確信させるのは聖霊の働きである、と一応説明ができるものの、たぶん当人には、そんな説明は必要ないものであろう。共にいるから共にいるのだ。つながっているからこそ、つながっているのだ。
 
私たちは、日常そのような心づもりで生きているのではないだろうか。親子関係において、何か理由や説明があって、互いに信頼を寄せているのだろうか。配偶者がいれば、その関係にも、何か説明しなければならない事情があるだろうか。現に、ただ信じているから信じている、という「関係」がそこにあるままに、生活をしていないだろうか。もし、そういう信頼関係が自分の周りに全くないということがあれば、気の毒である。大家さんとの関係、お店と買物をするときの信頼、そうしたものに、一つひとつ説明を施さなければ意味をなさないような毎日を送っている人が、もしもいるとすれば、実に不幸なことであると言わざるをえない。
 
もちろん、戦禍において、あるいは不条理ないじめに遭っている、その学校や会社などにおいて、苦悩している方々を無視するつもりはない。だがそれは不幸なことであるという意味では、この指摘は必ずしも間違ってはいないだろう。
 
復活のイエスとは、このように、信じる者にとっては確かな実感をもって、関係が結ばれている。それを前提としよう。弟子たちもそうだったが、昇天という出来事で、見えていたイエスが見えなくなったとき、弟子たちのあり方は、何らかの変化を受けなければならなくなった。その十日後、聖霊が降るという事件によって、それは新たな局面となることになるが、そのギャップは問わないとして、いま私たちは、その聖霊降臨の出来事の世界の中にいる、という理解をすることが賢明であろう。
 
私たちは、確かなその実感を、証言する証人となろう。自分がどんなにつまらなくとも、そして心ない人々から無視され、嫌われようと、主が共にいるという歩み方の揺るがない道がここにあれば、何も気にする必要はないのだ。
 
そのように言うと、カルト宗教を懸念する人がいることかと思う。その通り。自分で自分を正義とすることをモットーとする信仰の仕方が、世を惑わしているのは事実である。ただ、それは基本的に組織に利用されているという情況にある。自分ではそう気づいていないだけの話である。
 
私はさしあたり、教会組織という大樹の陰に隠れるような真似はしていない。しかし、組織には首謀者がある。言葉が悪ければ、主導者と呼んでもよい。誰もが遠慮するような中心人物がいて、誰もその意見には逆らえないような空気があるとすれば、組織は場合によっては破滅へ向かいやすくなる、と言わねばならないであろう。もちろん教会組織の一員であってよい。だがそこにおいて、一人ひとりが目を覚ましている必要がある。一人ひとりが、イエスと結びついている必要があるのである。
 
では、そのイエスとは誰か。説教者がさりげなく問うたこの問いは、実に重い。イエスは十字架の上で殺された。だが神が復活させた。それを俎の上に載せてああだこうだと評論するようなことをしているならば、その人間たちには命が与えられまい。イエスとは誰か。それを私の中で知ること。私の心が開かれて、私が罪に死に、神の与える命に生かされるとき、聖書を通じて、イエス・キリストと出会うであろう。イエスを知るであろう。イエスと結ばれている魂を喜び、神との確かな関係の中にある自身を意識するであろう。
 
天に上げられるとき、イエスは弟子たちを「手を上げて祝福された」という。そして「祝福しながら」天に上げられたのである。「福音」というギリシア語の言葉は、「良い+知らせ」という語が合成されてできていることは、よく指摘されて有名である。だがこの「祝福する」も、これと似た構造になっていることは、あまり知られていない。「祝福」のギリシア語は、「良い+言葉」なのである。説教者はこの場面の最後のところから、この語に注目させる。
 
神が人を祝福する。ありがたいことだ。聖書にはたくさんの実例がある。人が人を祝福する。これもある。自分に悪口を言う者に対して祝福を祈るように、とルカのイエスが命じている(ルカ6:28)し、パウロも同様のことを書いている(ローマ12:14)。しかし同時にこの語は、「賛美する」と訳されている場面もあって、聖餐の場面での「賛美」または「感謝むといったところに使われていたこともある。そしてこの場面での最後に、この弟子たちが「神をほめたたえていた」(24:53)その動詞も、この語なのである。つまり、「祝福する」という訳語を用いると、ここは「神を祝福していた」となるのである。
 
このような訳語の使い分けは、原語の一致を見えなくする。いっそすべて「良く言う」のような訳語で統一すれば、一つの語に対する訳語が一つで済んだのである。但しそうなると、日本語としての品位や自然さという点で劣ってしまうというわけで、避けられたのであろう。翻訳の難しさの一つがここにある。
 
説教者は、こうした事情を説明して複雑にすることはしなかった。神が人を祝福する一方で、人も神を祝福するのだ、と手短に言い切った。どちらも「良く言う」ことなのだ、とだけ告げて。これは見事であった。
 
私たちは、それぞれが神との関係を築く。つながりを確かなものと認め、結びつきを意識する。そこに信仰が働いている。その信仰は、聖霊がもたらしたとしてよいだろう。この成立と、次のこととは、どちらが先でどちらが原因だなどということはない。同時性で捉えてもよいし、時間はさておき同じことなのだ、と言ってもよいだろう。説教者は力強く会衆の背中を押す。――心燃やされつつ、賛美の言葉、良い言葉を語り、また受けて、ここから世に出て行きましょう。アーメン。



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