若き説教者へ

2023年5月11日

若い礼拝説教者にもの申すような立場にはない。だが、老婆心(性差別と呼ばれるかもしれないが、私は男でも女でもないという意味で受け取ってもらえたら幸いである)というものは、ある。
 
しばらくぶりにその説教を垣間見ることがあった。まだ神学の学びを始めたころから、何度か耳にしているが、コロナ禍のせいか、なかなかお目にかかれなかった。
 
どうしたのか。それが第一印象であった。以前の君は、もっと熱く、よい視点を提供してくれた。だが、今回はなんだかおかしかった。説教内容の一部が文章化されてもいるものも見たが、文章そのものも不安定で、精彩を欠くものだった。
 
何を気にしていたのだろう。いや、その説教を聞く人々は、年上の方々ばかりだ。中には有力な人もいよう。緊張していたのだろうか。だが条件は、以前も同じだ。
 
前半、いやに早口で、落ち着きがなかった。物事の説明をしようとしたり、教会や教団の建前的なことを語る口調は、君らしくなかった。焦って話の展開が消えて固まることがあるのは、以前もないわけではなかったが、それを笑ってごまかそうとするような態度は、別の人を真似したのでなければ幸いである。
 
いったいその説教で、何を伝えようとしたのだろう。いまひとつ、自分の中で焦点が合っていなかったのではないか、と危惧する。あれもこれも説明しておかねばという気持ちは分からないでもないが、これだけは伝えたい、というものがあれば、教師は必ず授業でそれを伝える熱意と技術をもっている。説教者もひとつの教師である。
 
福音というものと、現存在する教会と、それらの両方を気にしすぎているのではないか、とも思った。いったい何が言いたかったのか。誰に向けて言いたかったのか。分散し過ぎているのである。結びの祈りも、話してきたことと、うまくつながらない。あるいは、穿った見方をすれば、いろいろな考えをカタログのように紹介してきたものの、説教後の祈りの言葉が要するに言いたかったことなのか、と初めて分かるような気持ちもしたのである。
 
前半の落ち着きのなさ、それはもしかすると、会衆にしきりに語りかけようとしていたことに基づくのかもしれない。当たり前ではないか、と言われるかもしれないが、会衆に語りかけるというのは、説教者と聴き手との関係の内での話、という意味で私は使う言葉である。
 
説教者は、背中から神の力を受けている。聖書からそれを受けて、自分なりに噛み砕いたり、強調したりしようと手を加えるにしても、自分が受けたことを、なんとかして人々に伝えたいと願う。それでいて、自分が受けたことを、人々も同じように受けてほしい、つまり自分の知ったことをそのまま知ってほしい、というふうに願うものではない。
 
自分の知ったことを伝えるのではない。自分が出会った神と、人々が出会ってほしい。だから、よく言われるように、語る者は「よき通り管」となって、神と人との仲介をすればよいのである。ただ、せっかく語るのである。その管に見合った形での出会いを果たしてくれたら、とは思うだろう。それでもなお、語る者が思いもよらなかった聖書箇所で、そこに居合わせた人が神との出会いを経験したのならば、それはそれで、神を称えるばかりであるのだろう。
 
なんとか知識を説明しよう、という誘惑は、あるだろう。だが、よい説明のできる教師が常によい授業をしている、とは言えないのが教育のセオリーである。生徒がよい気づきや理解ができるように、場を設定したり、導いたりする。そういう教師は、自分が博士級の知識をもっていなくてもよいし、そうした知識を躍起になって説明する必要もない。
 
前半は、建前的な内容もあった。もちろん、それが悪いはずはない。ただそれは、君にとり、地に足のついた話とはならなかった。だが、後半に、君は変わった。元に戻った、と言ったほうがよいかもしれない。確かにオブラートに包んだように、いくらか遠慮したような口ぶりではあったが、しっとりと確かな基盤を伝える内容の話をしばらくしていた。それは、自身が経験したことについてであった。自分が経験し、見聞きしたことについては、自分の中で安心できるような確信というものがあるだろう。それを語るとき、君は、もはや会衆に向けて言い聞かせようというような語り方をしていなかった。
 
神に支えられて、証しをしていたのである。人の顔を見ながら、人になんとか伝えるように、という話し方ではなかった。もはや誰にも何も言わせない、自分と神との間の関係をただ語るのだった。聖霊によって語らせてもらうときには、どこであろうと誰に対してであろうと、何を語るか心配する必要がない、とイエスは教えた。ただ神に動かされて、確固たる自分の中での出来事を語るのであれば、何も慌てる必要はない。誰かの顔色を見る必要もなく、真実を語れば、それでよいのである。
 
ただ、やはりその生き生きとした証しの話が、説教のテーマとどういう関係があるのか、本当にその説教により伝えねばならないことのための逸話出会ったのか、そこはよく分からなかった。せっかくの生きた話が、何故持ち出されたのか、うまくつながらないのである。
 
私は、若い礼拝説教者にもの申すような立場にはない。それでもどうしてこんなふうに蛇足ばかり綴ったのか。それは、君が、確かなハートを与えられているからである。期待しているのである。以前の君の語りは、荒削りではあったが、ハートがあった。スピリットと言ってもよい。それが、なんだか八方美人になろうとしているように感じられてならなかった。誰にも体よく振舞おうとして、いったいどの姿がほんとうの君であるのか、掴めなくなっているように思えたのだ。
 
なんだかずいぶんきつい言い方をしているように聞こえるかもしれない。しかし、私は君を買っている。君がこの説教をしていたその空間の中に、君ほど命ある説教を話すことができる人は、おそらくいなかったはずだ。少なくとも、以前君の説教を聞いたときには、確かな命の実感を覚えたものだった。
 
だが、今回はどうもその実感がなかった。どうしてなのだろう、とその後も考えていた。二つのことを思いついた。一つは、今回君は、聖書をなんだかずいぶんと客観的に説明しようとしているように見えたことだ。聖書から距離を置いて、外からそれを見ている感じがしたのだ。以前は、もっと聖書の中に入った立ち位置ではなかっただろうか。あの箇所から聖書の中に入れば、自分のすぐ横で自分を助けてくださっているイエスを、肌で感じたはず。それを生き生きと伝える語り口調がなかったような気がするのだ。
 
もう一つは、その客観的な見方になった背景についてである。それは、君のいる環境で聞く説教が、全般的にそのようなものを当たり前だとしているのではないか、という推測である。ただの若者から、落ち着いた大人へと移っていくこの時期に、君のよいところを見失わせるような説教を、お手本にして学んできてしまったのではないか、という危惧である。あのように話せばよいのだ、と真似る(学ぶの原義だという人がいる)うちに、なんだかそれが当たり前のようになってきているのではないか、という心配をしているのである。
 
君はどのような説教を、聴いているだろうか。聴いている説教のスタイルや質に、馴らされているのではないだろうか。あのように語らねばならないのだ、と思い込まされているのではないだろうか。
 
結論。君の知らないところに、すばらしい説教がたくさんある。多くの優れた説教を聴くとよい。音源もいまはよく知ることができるが、文章化したものでもよい。力があり命をもたらす説教を、もっと多く知るとよい。身の回りからは得られないような説教に出会うとよいと思う。日本にも、説教を命あるものとするために、互いに研き合い、検討し合うような説教者たちがいる。その成果を書物として世に示しているものもある。
 
それらが完全なものだ、などと言うつもりはない。だが、君なら、きっとそれらの説教集によって、研かれることができると信じている。いまのままだと、鈍くくすんだもので当然だ、と思い込まされていく危険性がある。神の言葉を語りたいと願い求めるならば、必ずできるだろう。君の置かれた環境には、そのような願いをもつ人は、残念ながら稀であるらしい。だが君には、それを語ることができる素地がある。良い説教に触れてほしい。
 
結局もの申しているではないか――その非難は、ただ私が甘んじて受けよう。



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