2023年5月8日

「扉」とくれば、出エジプトの旅の中で、神が雲に命じて「天の扉を開き」(詩編78:23)、マナを降らせたというくだりを思い出す。ギターでその賛美をうたっていた頃があったのだ。神に逆らう民に対して怒りをぶつけた神ではあったが、岩から水を出し、天からはマナを与えた。
 
説教は、死への扉を開くイエスの姿を最後に示すものだった。黙示録を読み続けるシリーズである。主イエスが、「死と陰府の鍵を持っている」(黙示録1:18)という情景をモチーフに選ばれたテーマであったと思われる。
 
そのペリコーペには、この記録を綴ったヨハネという人物が、簡単な自己紹介に続いて、「パトモス島」という場所にいたことが、まず書かれている。続いて「主の日」という時が報告されている。「いつどこで」のような情報がそこにある点を、説教者は指摘した。
 
とくに、この「主の日」という点は、注目に値する。ふだん見落としがちな情報だと思うからだ。ヨハネは流刑だったのではないか、と言われている。2021年のアニメ放送で改めて関心をもったが、「平家物語」では、平氏打倒の陰謀をはたらいたということで、俊寛僧都たちが流刑に遭う。娘徳子の出産のために、清盛は恩赦を施すが、俊寛だけが島に残される。平家物語の有名な段である。いったい、彼らは暦というものに従って生活できたのだろうか。
 
しかしヨハネは「主の日」を区切っていた。それほどに、安息日というものは生きるための根柢に染みついていたのだろうか。但し、ここでいう「主の日」は、すでにキリストの弟子たちが、ユダヤ教の安息日からずらした形で考えていたのではないかと考えられる。元来の安息日が、「主が休まれた日」であるとすれば、キリスト者たちの「主の日」は、主が蘇った日である。この点を説教者は、「神がお働きくださった日」と称した。これにはハッとさせられた。キリストを蘇らせたというのもそうだが、世界を創造したという、働きの初めがその日であったのだ。新しい命に生きる、そこがキリスト者にとり特別な日として扱われているのだ。
 
それはいまの日曜日にあたる。キリスト者はこの日を以て、礼拝の日とする。そのため多くのカレンダーは、日曜始まりである。日本でもカレンダーはそうであるのだが、手帳に関しては、日本では、日曜日が週の最後の日とされている場合が目立つ。しかもビジネスの世界を標準にすると、土日の欄が平日の半分程度になっているものも多い。
 
これについては、国立国会図書館のデータベースに興味深い記事があるのを見つけた。日本能率協会によると、1987年に「ウィークリーを日曜始まりから月曜始まりに変更」との記述があるのだという。理由は、「週休2日制の導入増加により土日を並びにした方が予定を立てやすいはず、といった配慮があった」からであるらしい。
 
私個人は、手帳は日曜日が最後になっているものが使いやすかった。一時は、もちろん聖書の基準から考えて、日曜始まりにこだわったこともあったが、使いやすいのは日曜終わりだった。それは、次週の教会の予定などを、月曜日からずっと見つめながら暮らすことになるからである。奉仕などの実務的なこともあるが、説教題や聖書箇所が分かれば書きこんでおくし、それを見ながら楽しみに平日を過ごすことができたのだ。
 
但し、教会で「今週」とか「来週」とかいう言い方をするときには、日曜始まりに徹していた。礼拝後の報告のときに、三日後のことを「来週の水曜日に……」などと言われたら、「違いますよ」と釘を刺すのだった。
 
さて、説教では、遠藤周作や大江健三郎といった人の名前が登場した。大江健三郎氏については、最近逝去されたことから、会衆の意識の中にもあった人物であるかもしれない。それにしても、作曲家である光さんのエピソードが、その背景について特に説明もなく繰り出される会衆というのは、なかなかレベルが高くないだろうか。それは遠藤周作氏についても、同様である。とくに遠藤氏は亡くなってから27年目、かつての売れっ子作家という空気はいまの文壇にはなく、カトリック作家だということを知らないクリスチャンも少なくないと思われる。まして、カトリックにおいてもそうだが、そのキリスト解釈は物議を醸したなど、今認知されているのだろうか。それを、「母なるもの」というその思想を、これもことさらに説明なくさらりと述べることのできる会衆というのは、やはりレベルが高いと思われた。常々、こうしたことに十分に触れたお話を、教会でしているのかもしれない。
 
もう一人、小畑進さんの本に学んでいる、という言及もあった。私は読んだことがないと思った。調べてみると、そのお名前は結びつかなかったが、こうした人がいたことについては、聞き覚えがあった。比叡山で修行し、僧侶でもあったが、キリスト教を信じ、献身したという人である。牧会時期もあったが、神学校で教える立場を務めたこともあった。一時関西聖書神学校でも教えていたというから、私に洗礼を授けた牧師の出身校だということで、親近感を覚える。その本を読んでみたいと思ったが、とんでもなく高価な値がついていた。これは無理だ。
 
さて、説教内容に関係のないようなことばかり触れてきて、申し訳ない気がするが、この説教は終わりが見えてくる頃に、黙示録のテキストに戻って駆け抜ける。ヨハネに対して、七つの教会に書き送れという声が聞こえたが、振り向くと、幻想的な風景がそこにあった。ヨハネは倒れ、死んだようになる。すると、その方が――イエスが――右手をヨハネの上に置いた。感染症の患者に対しても、手を触れて癒やしたイエスである。罪深い私のような者から離れてください、とひれ伏したペトロのような気持ちに、私だったらなるのだろう、などと想像しながら、その情景を思う。
 
そしてイエスはまず「怖れるな」と言う。聖書にあまりに多すぎて、「またか」と思いがちになるが、これほど私たちにまず与えられて、支える力のある言葉はない。恐れる必要がない、と安心させてくれるのだ。「苦しゅうない」とまず上位の方に言われると、ほっとするものだっただろう。
 
ヨハネが命じられたのは、七つの教会へと手紙を送ることだった。それは最初に命じられていた。だが、さあいまそれをするのだ、と行動を促すための命令である。このイエスは、生きている。一度は死んだが、世々限りなく生きている。「生きている」との繰り返しに説教者は注目させる。否応なく目につくのだが、こうした繰り返しは重要である。ひとの名をも、二度呼ぶことがある。
 
そしてここで、「死と陰府の鍵を持っている」という声が現れる。そして少しばかりイメージの加わったメッセージを加える。が、ここからは私の応答として、私のイメージを綴ることにしよう。それは「死と陰府の扉」である。しかも、言及したのは、一度死に、かつ生きているという主イエスについてである。復活のイエスは、神により復活させられたのではあるが、今後その管理に携わるものとすると、この鍵というのは、死から生へと向かうための扉の鍵なのであろうと私は考えた。その扉から最初に現れたのが、イエスである。イエスは初穂であったのだ。
 
これから、死んだような教会へも、巻物を送らねばならない。ヨハネへさあ書けと命ずるお方は、その死から生への道を体験された方である。そして信じる者を、同様に死から生へと導くことをしようとする方である。死んだような教会も、そうなるべきだ。その鍵はイエスが有する。だが、そのイエスからもたらされた言葉がここから備えられるのだとすれば、言葉に鍵があることになるだろう。正に「キーワード」である。私たちは、聖書の内にイエスに出会い、その言葉から、「キーワード」を見つけ出すことを求められている。それは聖書の中にある。聖書には、付け加えられた言葉も、削られた言葉もないことが黙示録で保証されている。
 
この危機的な教会の中に、私たちの世界の教会もある。よく、自分の教会は、これらの七つの教会への手紙の、どれかがあてはまる、などと言われる。無理にひとつに絞る必要はないが、危機感をもつことは必要であろうと思われる。厳しい時代の魁としての黙示録は、いまも、いつでも、その厳しさを突きつけることのできる、やはり聖書には欠かせない書であったのだ。
 
最後に、説教題に「扉」という言葉があったことについて、触れることにする。確かに黙示録の選ばれた箇所に、この言葉がある。だが、説教の中でこれに触れたのは、最後の最後においてであった。それまでに、「扉」という概念を心に用意しておくことができないような構成であったと思うのだ。
 
だが、聴く者としては、何かしら伏線が欲しかったと思っている。心の準備とでもいうのか、説教の早い時期から、「扉」というイメージを心に描いていたとしたら、最後の場面が、もっと生き生きと浮かんで来、また、最初から話されていたことと有機的に結びついたのではないだろうか。
 
もちろん、説教に与えられた時間を気にする必要はあるから、あまりに余計なことを持ち出すわけにはゆかない。だがたとえば私だったら、いまなお上映中の館もある、映画「すずめの戸締まり」が、「扉」をモチーフにした佳作であったことを用いたかもしれない。大地震のきっかけとなる「要石」という要素は、新海誠監督の好きな神道思想に基づくものではあったが、各地に現れる「扉」の向こうは死者の世界であり、それを閉じる鍵が、東日本大震災の過去から足を踏み出す一歩となるようにも考えられるのである。だが、だとすると、死から生への扉というよりは、もはや死へとは進ませないために閉じる扉ということになり、今回の説教のイメージとは逆のようになったかもしれない。
 
では説教者のイメージに近い情景は、聖書の中になかっただろうか。私の目に留まったのは、詩編107編であった。
 
苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと
主は彼らの苦しみに救いを与えられた。
闇と死の陰から彼らを導き出し
束縛するものを断ってくださった。
主に感謝せよ。主は慈しみ深く
人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
主は青銅の扉を破り
鉄のかんぬきを砕いてくださった。(詩編107:13-16)



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