【メッセージ】生まれ変わるチャンス

2023年5月7日

(イザヤ43:18-25, コリント二5:17)

わたし、このわたしは、わたし自身のために
あなたの背きの罪をぬぐい
あなたの罪を思い出さないことにする。(イザヤ43:25)
 
◆転生
 
人間、ある程度年齢を重ねると、自分の人生はこれでいい、と思うようになることがあるようです。それとも、もう一度生き直すということが、面倒くさくなるのかもしれません。また受験勉強をするのはもうたくさん、などと。
 
しかしまた、もしも生まれ変わったら、というファンタジーにも、どこか興味が惹かれます。だからでしょうか、昔からそうした映画やドラマが多々ありました。特に映画では、その手のものがやけに流行したこともあります。
 
それと同じ系統なのかどうか、正直よく分からないのですが、アニメやコミックスでは、近年やたら「転生(てんせい)もの」が定番のようにもなっています。生まれ変わった異世界で奇妙な体験をする、というようなものです。私はアニメは好きですが、このタイプは好まないので、ちゃんと見たことはありません。SNSの広告にはこの手のコミックスがよく入ってきますのでそれくらいの知識しかありません。
 
前世という考えに基づいているようなところがあるとすれば、輪廻転生(こちらは「てんしょう」)に馴染んだ仏教文化のなせる業でしょうか。しかし、転生ものが、基本的に前世の記憶を十分にもっていながら次の人生(ひととはかぎらないが)を楽しんでいるのが、どうにも都合が好すぎるような気がして、私は好きではないのです。一度きりの人生を簡単にリセットするような雰囲気も感じるのですが、ファンからすると、ずいぶんと誤解している、と思われるかもしれませんね。
 
そう言いながら、この春、実はちょっと引き込まれたものがあります。「推しの子」というのですが、ミステリーの要素を含みながらも、ひとの「こころ」の深いところに探りを入れるようなところがあって、最初は「転生もの」とは知りませんでした。未成年のアイドルが妊娠し、郊外の医院で出産しようとします。が、そのアイドル推しだった医師が、たぶんそのアイドルのストーカーにより殺され、そのアイドルを医師に教えて先に病気で死んだ若い女の子と二人で、そのアイドルの双子となって転生するのです。やがて復帰したそのアイドルも、もしかすると同じストーカーかもしれない者に殺されてしまう、という、なかなかスリリングな始まりでした。医師の生まれ変わりの男の子は、ただそのアイドルの復讐のために生きていきます。――ご存じのない方にはこれ以上ご説明してもお聞き苦しいことでしょう。ご存じの方は、どうぞニヤリとしてください。
 
◆生まれ変われるなら
 
生まれ変わったとき、その元医師は、かなり喜んでいました。赤ちゃんの体にしてそのような精神があったら、どうなるのでしょう。生まれ変わって楽しそうにしています。その「生まれ変わり」のことを、今日は気にしていくことにします。
 
歌詞の中に「生まれ変われるなら」という言葉が入っている歌を、調べてみました。けっこうたくさん見つかりました。とある検索方法によるのですが、ゆうに百以上の歌の歌詞が引っかかってきました。
 
やっぱり、どこかひとの願望なのでしょう。現在の境遇を不幸と思うときは、とくにそうかもしれませんが、ひとの出会いというものを思うと、もっと素敵なひとと出会いたかった、というような想像が働くことがあるのでしょうか。尤も、いま目の前にいる相手からすれば、こちらこそ「もっと素敵な人だったら」と思われている可能性を、考えたほうがよさそうではあります。これは、パートナーのいる方には質問しないでいたほうが賢明だ、ということにしておきましょう。
 
自分の問題としても、考えさせられます。いつからか「黒歴史」という言葉が使われ始め、定着しました。自分の過去の汚点、ひとに知られたくない事実を、できるならなかったことにしたい、という心理が、私たちの心のどこかにはあるものでしょう。あのとき、あれさえしなければ、という後悔めいたもののない人は、めったにいないものと思われます。
 
でも、冷静に考えてみれば、そのためにもし別の人生を歩んでいたとしたら、その人生でやはり、何かしら黒歴史を刻むものではないでしょうか。ひとは失敗から逃れることはできないし、キリスト教的に言えば「罪」のない人生はありえないものですから。
 
たいていの人は、そういうことを夢想しても、なんとか目を上に向けて、未来を見ようと歩いていきます。「まぁいいか」と黒歴史を振り切って、今日を生きるしかない、との開き直りができるわけです。けれども、中にはそれができないタイプの人がいるし、またどうにもできなくなるときがあるのは、誰でも経験することでしょう。
 
心に傷を負うこと。災害に遭った人が、過ぎたことを忘れられないことを、誰も責めることができません。また、嫌な思い出に苛まれて、人前に出ていくことができなくなる人もいます。最近の子どもたちに「自己肯定感」が薄いのは問題だ、と指摘されて久しくなりますが、やはり重い心をもつ子どもたちに関わる大人の方々の配慮には、ただただ頭が下がります。
 
◆中井久夫さんのこと
 
阪神淡路大震災のときに、神戸にいた精神科医・中井久夫さんが、2022年8月に亡くなりました。多くの人々に惜しまれ、追悼特集号が多くの雑誌関係で出版されました。統合失調症について優れた考察と実践を繰り返した方です。もしあまりご存じのない方がいらしたら、これから関心をもってくだされば幸いです。
 
私が中井さんに関心をもったのは、安克昌さんを通してでした。やはり阪神淡路大震災のとき、駆け回り人々の心の癒やしのために尽力した若い医師です。『心の傷を癒すということ』に、そのレポートが書きこまれています。ドラマ化もされ、柄本佑さんが安先生を好演しました。40歳を前にして亡くなったことが悔しいものですが、中井先生はこの安先生の師でした。
 
お二人の働きで「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」という言葉が世に知られるようになりました。災害のような大きなショックにより、心に深い傷を負うことです。これに似て「トラウマ」という語がよく知られていますが、「トラウマ」というのがずばり「心的外傷」のことで、このトラウマによることがはっきりした点で心に異常を来した状態を「PTSD」と称します。但し、素人の私が説明すると、間違ったことをお伝えすることになるかもしれません。よかったら、きちんとした専門家の監修による書などに、目を通してくださればと願います。
 
中井さんは、ギリシア語が堪能で、翻訳もなさっています。また、すぐれたエッセイストであり、素晴らしい文章をたくさんお書きです。すぐれた見識をバックボーンにもつ読み物がたくさん出回っていますので、これもまたお薦めです。なんだか、本の宣伝ばかりしているようになってしまいましたけれども。
 
追悼誌も複数拝見しましたが、新しいところで『臨床心理学』(金剛出版)がこの3月、「中井久夫と臨床心理学」という特集を追悼号として出しています。専門的な本で、私には分からない事柄もいろいろありましたが、そこに、中井さんの信仰について触れられている頁がありました。
 
中井久夫さんは、2016年5月29日に、天の聖母カトリック垂水教会で、洗礼を受けています。ペンテコステ礼拝の翌々週のことですが、そのとき車椅子姿であったと記されています。どうして洗礼を受けるのですか、と尋ねられて、中井さんは「驕り(ヒュブリス)があるから」と答えたのだとか。深い意味がありそうですが、それでは神とは何かと尋ねられたときには、「便利なもの」という謎の答えを示したとも書かれています。
 
母親が聖書をよく読んでいたのは事実のようですが、その影響かもしれない、という推測を交えながら、その筆者は、また別のところに、中井さんの洗礼の背景を見つめていました。
 
『「甘え」の構造』は、土居健郎(たけお)さんの手による、もう半世紀も前のベストセラーです。日本人の心に潜む「甘え」の本質を指摘しました。尤も、それは私たちが「甘えている」という否定的な感覚で見るものとそれとは違います。日本社会を潤滑に保つために大いに貢献した本質的心理であるというのです。
 
中井さんは、この土居健郎さんとのつながりがあった、とその文章は指摘していました。土居さんはカトリック信徒で、聖路加国際病院の精神科医長も務めています。土居さん自身にも、橋本寛敏(ひろとし)というクリスチャンの師匠がおり、こうした影響の与え方をステキだと思いました。
 
土居さんが2009年に亡くなったとき、中井さんが追悼文を綴っています。「君はほんとうはカトリックなのにそれに気づいていないのだ」と土居先生に言われたのだそうです。
 
それ以上、文章は信仰のことについては踏み込んでいません。しかし、精神科医としての中井久夫さんについて、たくさんの文章が寄せられるようになってきた中で、その信仰についての側面も、今後明らかにされていくとよいのではないかと思っています。信仰というものは、精神医学の方面からしても、決して無視してよいことではないと感じるからです。
 
◆誰のせいか
 
心に傷を負わされた人に対する助け、それはとても大事なことだと思います。それと向き合うことが望ましいと言えます。しかし、自分の失敗や欠点に向き合うには、エネルギーが必要です。向き合うのに耐えられない人もいます。
 
自分の拙さを、誰かのせいにする。すると、少しだけ自分のプライドが保てると勘違いする心理が、人間にはあるのです。時に、その「誰か」を、創造主に転嫁する場合もあります。神さまが、こんな自分にしたのだ、などと言っておけば、とりあえず現実の誰かを傷つけるトラブルにはならないからです。
 
そもそもふだんから、神さまなんか信じていないのに、自分を正当化するためにだけ、神のせいだなどと引っ張り出す、そんなこともあるのではないでしょうか。
 
では、聖書をふだんから読む人、そして教会に来ている人、信仰をもっていると思っている人、そういう人はどうでしょうか。ありのままの自分を愛することができるようになった人もいるでしょう。けれども、どうしてこのような者に生まれたのか、嘆くということがあるかもしれません。私の中にも、実はそれがありました。が、そのことについては、再来週にお話しすることにします。
 
そうした疑問や悔しさが、神学になることもあります。神は、人を善きものとして創造したが、人は堕落した、とするのです。もともと人間は不良品として生産されたのではないけれども、あることをきっかけにポンコツになってしまった、というのです。創世記には、キリスト教でいう「原罪」という考えの発端になる出来事がありました。ユダヤ教はそのようには取らないという話ですが、キリスト教は概ね、人が生まれながらにして有つに至った「罪」というものを、そこに指摘します。
 
これを強烈に植え付けるようにして、審判というところに結びつけていくと、少し怖い動きになる場合があります。原理研究会などと称したグループに代表されますが、キリスト教一般の内にも、潜んでいます。逆にまた、そういう悪い効果から離れようとして、「罪」について全く触れなくなったグループもあります。
 
◆救いのパラドクス
 
結局、自分を全く見ようともしないで、常に誰か他人のせいにしようという見方をしている限り、恐らく問題は解決はしないものです。自分がすべて悪い、と憂鬱になる必要はありませんが、どこかで何か自分の身に引き受ける覚悟が、きっと必要なのです。自分の中にある問題を知る。しかし、そこからの脱出が求められます。そのために、すべて自分で解決するのだ、という意気込みは、恐らく不成功に終わるでしょう。自分で自分を救うことは、多分にできないのです。
 
自分で自分を救うことができない。それが人間というものです。自分は誰に救われるのか。それをイエス・キリストの姿に見出したのが、新約聖書であり、キリスト教というものです。この件についても、再来週に扱いますので、ご期待ください。
 
しかしその聖書には、「自分を救うことができない」別の姿が記されています。ルカによる福音書23章で、イエスが十字架につけられている場面です。
 
35:民衆は立って見つめていた。議員たちも、嘲笑って言った。「他人を救ったのだ。神のメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
36:兵士たちもイエスに近寄り、酢を差し出しながら侮辱して、
37:言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
38:イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた罪状書きも掲げてあった。
39:はりつけにされた犯罪人の一人が、イエスを罵った。「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ。」
 
人々が罵ります。自分を救え、と揶揄します。イエスは、その能力があったのにしなかった、そのように説明する人がいますが、どうであれ、これはもうできなかったでしょう。イエスは、人としての立場でのあり方を全うされたのだと思います。その後に、別の形で、人を救うというシナリオへと進むしかなかったのだと思うのです。
 
それにしても、やはり悔しいような、奇妙な構造がここにあります。人を救う神の姿が、自分を救うことを拒んだのです。キリスト者の信仰の中には、このパラドキシカルな構造があるわけです。
 
このキリストを信じるということで、私たちはその救いを受けます。私たちはあらゆる挫折と困難を超えて、新たな人生を始めることができます。過去のことに囚われて、そこから動けないでいる必要は、もうありません。
 
だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。(コリント二5:17)
 
◆罪を完全に消し去る
 
旧約聖書のイザヤ書43章にも、古いものに縛られず、新しい世界が拓かれていくという、壮大な情景が描かれています。少し長くなりますが、一度に受け取りましょう。
 
18:先にあったことを思い起こすな。/昔のことを考えるな。
19:見よ、私は新しいことを行う。/今や、それは起ころうとしている。/あなたがたはそれを知らないのか。/確かに、私は荒れ野に道を/荒れ地に川を置く。
20:野の獣もジャッカルも鷲みみずくも、私を崇める。/私が荒れ野に水を、荒れ地に川を与え/私の民、私が選んだ者に飲ませるからだ。
21:私はこの民を私のために造った。/彼らは私の誉れを告げるであろう。
22:しかしヤコブよ、あなたは私を呼ばなかった。/イスラエルよ、あなたは実に私を疲れさせた。
23:あなたは焼き尽くすいけにえの羊を/私のもとに引いて来ることもなく/あなたのいけにえで私を崇めることもなかった。/私は穀物の供え物の重荷を負わせたことも/乳香であなたを疲れさせることもしなかった。
24:あなたは私のために/銀を払って菖蒲を買うこともなく/いけにえの脂肪で私を満足させることもなかった。/かえって、あなたの罪で私に労苦させ/あなたの過ちで私を疲れさせた。
25:私、この私は、私自身のために/あなたの背きの罪を消し去り/あなたの罪を思い起こすことはない。
 
途中、生け贄の話が出て来ます。そのまま読むと、まるで神が、生け贄や献げ物をしないイスラエルの民に対して不満を述べているかのようにも見えてしまいます。預言者イザヤを通して、神がそのようであるかもしれない、というように、分かりやすく民に伝えている様子を私は想像するのですが、他の聖書箇所と比較しても、生け贄をしないからすねるような神の姿はイメージすべきではないような気がします。
 
それよりも、それが本筋ではないのだ、というように、ここでも実は言っているように私は感じます。それよりも「かえって、あなたの罪で私に労苦させ/あなたの過ちで私を疲れさせた」(24)というように、イザヤは、人間の側の「罪」や「過ち」というものに目を向けさせています。そしてそれに続いて「私、この私は、私自身のために/あなたの背きの罪を消し去り/あなたの罪を思い起こすことはない」(25)と言って、「罪」は消し去るのだ、思い出しもしないのだ、というように、神がやがてイスラエルを回復することを告げているのだと思います。
 
神は罪を拭います。罪をもうこれからは問わない――そう理解することにしましょう。過去の罪のために、重荷を負う必要もない。過去の罪に苦しみ続ける必要もない。イザヤは、新しい出発を促します。だからもう、「先にあったことを思い起こすな。/昔のことを考えるな」(18)と告げたのです。「見よ、私は新しいことを行う。/今や、それは起ころうとしている」(19)というように、新たな世界が、もうそこまで来ています。顔を上げれば、それが見えるのでしょうか。希望の光が、射してくるのでしょうか。
 
但し、見上げた先には、先のイエスの十字架があります。イエスの苦しみを通してのみ、新たなものと出会い、それを知ることができるのです。イエスの血を見たでしょうか。十字架の言葉を聞いたでしょうか。自分を救わずして、すべてのひとを救う決意をしたイエスを、キリスト者は慕います。どこまでも、この方の故に自分があると信じています。かつての醜い姿、黒歴史ですら、イエスのこの業の前には、消し去られてしまったのです。
 
誰かのために、というよりも、私のために、いまここに、イエスの声が響いてくるのを、確かに知っているのです。
 
◆生まれ変われる
 
生まれ変わりたい。その願望をきっかけにして、ここまでしばらく歩んできました。そうだ、だから「死んだ気になって頑張るんだ」と思った方もいらっしゃるでしょうか。でも、そんなに頑張らなくてもいいのが、聖書の良い知らせです。
 
もちろん、自分を鼓舞することが悪かろうはずがありません。自分を励ます思いを抱くことは大切です。ただ、それをすべて人の力の中に見出すことは、まず無理なのではないか、と思います。それが、聖書を知る意義です。聖書の中に入っていくこと、聖書の中から言葉を聞くこと、それは自分で自分を救うことの不可能性に気づくことでもあります。
 
キリストの内に、すっぽり入るとよいのです。キリストの懐の内に匿ってもらうとよいのです。十字架のキリストの脇には槍が刺されたといいます。その傷が目の前にあって然るべきでしょう。そのキリストは復活し、トマスにその傷をはっきり見せたことが、ヨハネによる福音書に記されています。あなたもそれを見ましたか。見るとよいのです。
 
そのとき、新たなことが始まります。過去の黒いものに縛られることなく、あなたは自由になるでしょう。いまここから、新しい道がスタートします。古いものは、もう過ぎ去ってしまいます。確かに過ぎたもの、去ってしまったものとなるのです。そして、ここから新しいものが始まりました。新しいあなたが、生まれるのです。
 
この知らせは、生まれ変わるチャンスをもたらします。もう一度母親の胎内から生まれてくる必要はありません。生まれ変われるものならば、などとありえない仮定法(接続法)を使う必要はありません。本当に、新たになるのです。新しく、されるのです。
 
ここにひとり、その証拠たる人間がいて、こうしていま証言しているのですから。



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