『精神現象学』(100分de名著)に学ぶ

2023年5月5日

NHKEテレの「100分de名著」も、ずいぶん長く続いている。始まるときのこともよく覚えている。よい番組だ。よくつくりこんでいる。先月には、新約聖書の福音書が、若松英輔さんのよいリードで紹介された。聖書を、読んでみようという気持ちにさせる番組となった。制作者自身がそういう心になったし、世間の評判もよいようだ。これは特筆すべき現象である。
 
これをどうしてキリスト教界がもっとバックアップしようとしないのか、不思議でならない。これを機会に、聖書を共に読んでみましょう、といった声を発する教会があちこち起こるのではないかと思えるような雰囲気があるのだが、教会がこれをアンテナにキャッチして、聖書を読みませんか、といったメッセージを発するような話をさっぱり聞かない。本気で福音を伝えようと思っていないようにしか見えない。もちろん、私の知らないところで番組を用いて呼びかけている教会は、どこかにあるだろう。そもそもあの若松さん自身のメッセージが、教会に行きましょう、というのではなくて、聖書からイエスに出会って戴きたい、というものだったので、これこれでよかったのかもしれない。
 
番組ではその翌月、今度はヘーゲルの『精神現象学』が番組で取り上げられた。初回がすでに放送されたが、カントの『純粋理性批判』とハイデガーの『存在と時間』と並び称せられる、哲学の難解な三本柱だなどと称されていた。ドイツ語ばかりだ。ハイデガーはその概念の独自性により、カントとヘーゲルはその悪文により、読みづらいのは事実である。しかしカントよりもヘーゲルの言い回しのほうが、いっそう抽象的で、意図しているところが見えないような気がする。著作時の年齢からすると、カントのほうが圧倒的に高齢である。ヘーゲルのまだ若い勢いからか、隠された考えについてはガイドなしには苦しいだろう。
 
今回の番組では、そのガイドがずいぶんとソフトである。全部を欲張らずに、ヘーゲル独特の弁証法理解を簡単に紹介した上で、それを用いて互いに良い社会を築くための考え方の展開のように説明していくのだった。
 
思い切った構成である。それというのも、今回の講師である斎藤幸平氏が、ヘーゲルの専門家ではないからこそできるのではないか、と私は思っている。2年前にも、マルクスの『資本論』を読む回で講師を担当している。どちらかというとそちらがベースであるだろう。しかしマルクス哲学も、ヘーゲルなしには生まれなかったであろう。ヘーゲル専門家ではないからこそ、思い切った解釈が紹介できるのかもしれない。
 
今回のテーマは、「社会の文壇を乗り越える」というところにあるものと思われる。だから、「今こそ読まれるべき一冊」である、と述べている。「完全にわかり合えない他者と、共に生きていくためには何が必要か」を模索するために、ヘーゲルのこの本を、いわば利用するのである。
 
そのためには、意識としての精神が展開して絶対知に至る現れを描くというこの壮大な世界観が、誤解されがちな、神の運動であるかのような方向に陥らないように、度々釘を刺す。そして反対に、その解釈は、いま私たちがいる社会の問題そのものを扱っているのだ、とするものである。
 
何でも論破したつもりになることの愚かさが、ここに晒される。「自分が正しい」状況をつくるために、立場をころころと変えて、ただ相手を言い負かそうとすることにかまけるのは、ヘーゲルにしてみれば、精神のまだ初期の段階に過ぎない。こういう言い方は適切でないかもしれないが、要するに幼稚なのである。
 
さらに、宗教を科学の立場から、無意味だとするような考えも不十分である。宗教を拘束された不自由なものと嗤う立場こそ、別の原理に支配されていることに、自ら気づくことがない。それはある意味で「信仰」しているということになる。しかし宗教的立場は、信頼することを知っている。共感や承認関係に基づく知というものを見落としている。人は、宗教によって、人間や人生への問いと向き合ってきたのだ。自己の理解を深めてきたのだ。
 
こうして、分断の世界の中に欠けているものとして、信頼の重要さに注目すべきであると共に、他者との関係において、自由なるものを考えるべきであることに気づいていくという。そこで、分断を和解の方向に導くためには多大なエネルギーが必要であるためか、仲間内だけの世界に閉じこもるようになることを、ヘーゲルは見抜いているという点に触れている。
 
必要なのは、自己批判である。自らの誤りを認めたくないという一心でいると、仲間内だけの共感に頼り、意見の異なる他者と共に生きていくことができなくなる。これを互いに乗り越えるとき、他者との共生と自由とが成り立つ世界への一歩が始まるのではないか。講師は、その辺りに希望を見出そうとしているように見える。こうして、ヘーゲルの抽象的な思想と、当時の社会を踏まえた言及が、いまの私たちの世の中での風潮で再解釈されるように解説されてゆく。
 
「他者との差異を踏まえつつ、自分の立場を保持しながら、お互いにみずからの主張の正当性の根拠を提示する――。その余地を生み出す第一歩が自己批判だ」とヘーゲルは考えているのだそうだ。つまり「私が悪である」と「告白」する展開が重要なのだという。これが新たな展開となる。自分は何もしないのに、ただ非難だけで悪を暴いたと満足するのは、「偽善」なのである。
 
そうではなくて、自らが偽善であったことを認めること、それを省みて行動に移すこと、つまり自分の立場を捨てること、それが必要なのである。これをヘーゲルは「赦し」と呼んでいる。私たちが「変わる」ために必要な態度である。そうやって本当の意味で、人々は「私たち」と呼べる関係になる。人間は、そのようにできるはずではないか、というような希望を、講師はヘーゲルと共に掲げるのである。
 
私も少し胸が痛むところがあった。もっと別の仕方があったのではないか、というふうにも思われた。私ができているかどうかは自ら評価はしないが、「自己批判」の眼差しは忘れたくないと思っている。元々自分だけが正しくて、相手が間違っている、という傾向にある人間なので、それが少しでも変えられたのは、やはり信仰によるのではないか、と見ている。
 
しかし、十分な対話がなされずに、このように一方的な話を進めていくことがあるのも事実である。やむを得ない面があるとはいえ、他者との対話による互いの変革ということが、起こりにくい情況になっているのは確かである。哲学を学んでいたころは、こういうことは幾らでもあった。何でも質問したし、教えられ、絶えず自分を修正しなければならなかった。その心的過程は、もちろんいまも活かされている。気取った言い方をすれば、神との対話や祈りというものの中に、それは確かにあるものである。
 
では信仰生活が始まってからはどうだっただろう。出会った教義にはいろいろなものがあった。ただ、かなり頑固なものが少なからずあった。他方、緩すぎるものもあった。後者の場合、何を言ってもしてもよく、進言すら、暖簾に腕押しとなった。そのため、改善していく機運も起こらなかった。それは「赦し」であるようであって、実は尤も頑なな態度であるようにも思えた。
 
そういう中でも、私自身はどうなのだろう。自分では自分を評価できないことは分かっている。公平に見られるはずがない。それでも問い直す。それは、自分の外からの呼びかけの声を聞くということになる。そしてそれに応えるということになる。
 
ヘーゲルに学ぶ意義を、ひとつ教えてもらった。ひとが何かを正しいと信じても、人間の判断に完全はない。それはすでに分かっていたつもりだったが、いっそうその自覚を強くし、是は是、否は否としながらも、相手を受け容れ、自分が変容する、そうしたスタートを、いつでもきれるように心がけていきたいと思わされた。
 
同時に、キリスト者が、ここに何かを学んでほしいと強く願わされるのだった。自分の罪を知るところから信仰が始まったであろうはずなのに、自己認識がまるっきりできていないようなケースが散見されるからだ。今回は、教会関係者も、ヘーゲルの学びのために声を掛け合うようなことを、してほしいと思う。そして前回の福音書についての100分de名著のような機会を、積極的な活かすようになってほしいと願う。仲間内だけの世界に閉じこもり、独善的になる精神の指摘に、自分を見出すことができたらいいのに、と本気で思っている。



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