仲間が楽しく騒いで何が悪い

2023年5月1日

夜の仕事をしている。終電にはならないが、終電から数えたほうが早い電車に乗って帰る。乗り換えをするが、ひとつは座れる。混んでいるほうも、人と人とがくっつくほどの混み合い方をするわけではない。
 
ところがその日、近くでイベントがあり、そこから人が大勢流れてきた。発車を待つ電車は、すでに満員だった。次を待てというアナウンスが流れていたが、こちとらいつものように帰りたいだけだ。まだそう無理なく入口に割り込めそうだったから、入らせてもらった。
 
さすがに接触は防げない。私は電子書籍を、狭い空間で読むようにしていた。それだけの空間はあった。自分の胸にくっつけて、誰かの領域に迷惑を及ぼすことはないように、精一杯配慮したつもりである。
 
電車の中で話す声が、他人の思考を妨げるということには、気づいて戴きたいと常々思っている。ふだんなら、人が喋る声が五月蠅いと内心腹を立てることもあるが、それは車内がそもそも静かであるからだ。ところがその日は、電車の中はもう喚きちらすような声が飛び交っていた。混雑もしているし、誰も何も話すな、などと要求するのは無理だが、これでは精神的に苦痛を覚える。
 
イベントで興奮した若者たちが中心だった。友だち数人が一緒で、楽しいのだろう。大声で話し、騒ぐ。電車が走り出すと、ちょっと揺れただけでまた大笑い。つり革につかまる気もなく、周囲の他人をクッションにしていた。
 
もうこうなると、心を無にするしかない。いっそう文章に集中し、腹を立てないように心がけていた。その後、乗換駅のホームでも、深夜にキャーキャー騒ぎまくっている者がいた。自分たちは楽しくて仕方がないのである。
 
不思議と、私は彼らに対して怒る気持ちが起こらなかった。これは本当である。おやおや、立派な人格者であることの宣伝か、と不愉快になった方には謝りたい。だがそうではないのだ。私は、怖かった。恐ろしい、と思っていたのだ。
 
彼らは、電車を降りて家に帰れば、もう騒ぎはしないだろう。イベントを楽しんだ、ひとりの参加者というだけの肩書きになる。だが友だちが何人がいると、彼らだけの関係に浸ってしまう。仲間同士では、いわば調子にのって、羽目を外せる。仲間が楽しければ問題はない。他の人々がどう思うか、などについては関心がない。仲間以外の知らない人たちも、そのイベントの楽しみを知っている者だというくらいしか感じていないに違いない。
 
もし冷静に考えて自分を客観視するときが来たら、自分が他人にひどく迷惑をかけていたということに気づくかもしれない。よくないことだった、と判断ができるかもしれない。そういう意識を全くもたないままに、自分にとっての日常をまた生活していくだけであるかもしれない。
 
選挙のような、世の中の「正義感」を大きく変えてしまうような場面でも、何かしら勢いや盛り上がりのようなもので、重大なことが安易に決定されてしまう。そんな可能性を私は頭に置いていた。群衆心理と呼んでもいい。かなり後に振り返ったとき、どうして自分は、と思ってしまうようなことを、平気でやっていたことに気づくだろうか。が、そのときはそれが正義であり、楽しかったのだ。そして時代の変化に加担し、社会を変える力として大騒ぎしていた責任感を覚えることは、たぶんないだろう。
 
その日、私は社会科の授業に入っていた。第二次世界大戦のことを中学生に話していた。授業としては踏み込めなかったが、ヒトラーが第三帝国へとドイツ国民を導いた一面があると共に、ドイツ国民がそういうヒトラーをつくった、という見方もできるという思いを、私はいつも懐いている。国民は、選挙で彼を選んだ。彼を支持した。彼の政策を喜んだ。工業製品を管理するかのように、ユダヤ人を殺害することをなんとも思わないようにさえなってゆく。
 
彼らが悪い意志でそうやっていたのだろうか。そうではないと思う。同じ頃鬼畜米英として似たようなことを考えていたのは、日本の国民である。世界の少なからぬ国々の人々が、イベントの中にある仲間として、お祭り騒ぎ状態だったのである。
 
言い訳はいくらでもできる。後々、振り返る。あれは仕方がなかったのだ。あの情況では皆そのようにするだろう。実は内心いやだった。そんな弁解がなされたとしても、一人ひとりが小さな加害をすることで、全体がとんでもない力をもつ加害団体となっていたことは否めないだろう。
 
お国のために戦った兵士を悪く言うものではない。国のために命を犠牲にした人々は神として祀る、なにが悪いのだ。そんな声もあった。だが、問題はそこにあるのではない。誰が悪いとかどうとか吊し上げようなどと言っているのではないのだ。誰しもが、「私たち」などという群衆となって、客観視ができなくなり、自分たちが楽しいこと、正しいと思うことを、やってしまう、という人間の性質がそこにある、ということである。
 
イベント後の若者たちが、そういう興奮の中に、あったではないか。
 
そう思うと、気づく。サッカーのワールドカップや、野球のWBC戦のとき、大騒ぎしている人々が、ニュースやショーで幾度も幾度も放映されていたことは、恐ろしいことではないのか。大喜びする人々を、悪く言うコメンテーターは、ひとりもいなかった(と思う)。よかったね、感動したね、という一心の中で、夜中に興奮して大騒ぎしている人々を、すっかり肯定していたのである。
 
ああしたことが、潜在的に、自分たちが楽しいときには騒いでよいのだ、ということを刷り込んでいたことになりはしないだろうか。テレビでも誰もあの大騒ぎを歓迎していた。あれはしてよいことだ。若者たちがそう教育されてしまっていたとしても、おかしくはない。
 
プロ野球の優勝したときのピール掛けも、喜ばしいものとして映し出す。あれに水を差すようなコメントをすると、場違いであり、空気が読めないということになり、もう二度とコメンテーターとして呼ばれないことになってしまうだろう。だが、考えてみれば、この一色に染まる、しかし普通に考えてそれをよそでやれば迷惑千万なことが、仲間が楽しければやってよいこと、やるべきこととして意識の中に植え付けられてゆく。
 
批判者がただの無粋者として弾かれ、仲間が楽しければいいじゃん、というだけの騒ぎが世の中を席巻するようになる。これは、怖いことではないだろうか。恐ろしいことだと私が感じていたこのことを「杞憂」だとか、「あんたの考えすぎだ」「あんたはおかしい」だとか言ってスルーするとしたら、果たしてその人は、加害側で活躍しないと言い切れるであろうか。私自身もそういう波に乗っていたことを鑑みて、偉そうに言うつもりはないが、問い直したいと思っている。



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