TOKYO MER

2023年4月30日

劇場版『TOKYO MER〜走る緊急救命室〜』を観てきた。医療従事者の妻がどうしても見たかったということで、連れられて行ったのだ。テレビドラマの劇場版だというが、私は見ていないので、予備知識ゼロで鑑賞した。
 
最初から私は泣き通しだった。いきなり、緊迫感の中で救急救命のチームが事故現場に飛び込むのだが、意識のない負傷者に対して、冷静に語りかける、そのシーンからだ。分かっている。医療従事者はそうする、ということは分かっている。だが、それがいついかなる時でもそうだ、ということが、あの激しいシーンで、よけいに重く響いてくる。
 
プロは、冷静でなければならない。
 
もちろんストーリーをここで明かすつもりはない。きっと助かるぞ、という結末は用意されているに違いないと思いつつも、それでも、とてもそうは思えないような情況が続く。
 
映画に芸術性を求める人から見たらどうか、ということは、一切関知しないことにする。ただ、これは丁寧につくられたものだ、ということは言えるはずだ。様々な伏線が解決されるのはもちろんだが、とくに医療行為への緻密な監修が、医療従事者としての妻の心を掴んでいた。
 
言い方は悪いが、安直なテレビドラマだと、医療現場としてありえないような、雑な作り方がしてあることにがっかりすることが多いのだそうだ。しかしこの映画については、医療現場の描写や姿勢、そこに抱えている問題などが、誠実に扱われているのだという。
 
このコロナ禍で、3年間、医療関係者がどんな思いで現場に張り付き、世の中を見ていたか、それをちゃんと理解している制作だということが、ひしひしと伝わってくる、と妻は言った。
 
パニックの現場で、あくまでも冷静に、負傷者第一に淡々と行動するMERメンバーたちだったが、群衆はもう無秩序に慌て行動し、わざわざ負傷者を出したのだった。コロナ禍において、口先でいかにも正当なことばかり言い、無責任に行動する人々と、黙々とコロナ対応を続ける従事者とのことに気づいてほしい、と私は思った。挙句、ワクチンの取り扱いにミスが出たら、医療や保健は何をしている、と罵声すら浴びせられる。
 
いったい、どんな思いで一千日を過ごしてきたか、どれほどの忍耐を続けてきたか、そこへのリスペクトは、もうないのか。最初のころ、外国を真似して、ちょっとばかり拍手でもしておけばいいとしたことすら、もう記憶の片隅にもないのか。
 
もちろん、医療関係以外にも、経済的に痛手を負った人たちのことを蔑ろにするつもりはない。事業が成り行かず、不条理な政策もあって貧困に陥った人たちの絶望感にも、思いを馳せたい。ただ、いまは医療現場や医療事務などのことだけについてだけ言っている。救急車が来ないと言っては怒り、また、自宅待機を命じられたことが不当極まりないと論評していたようなことについて、しかもその後も自己正当化しかしていないような人々が、世の中には沢山いるのだ。ここから何か考えて戴きたい。
 
そのパニックの場面で、人々を正気にさせたのは、中学生たちだった。彼らは、事態を変えた立役者だった。彼らがチームの医療行為を、じっと見つめているカットは、それを準備していたのだった。私たちの社会で、そうした真っ直ぐな眼差しは、どこにあるのだろう。たとえば教会には、元来そうした眼差しがあったと思う。しかし、コロナ禍において、私はそうしたものを殆ど感じなかった。教会は、世の中を変える力を、本来もっていたはずだった。だが、コロナ禍において、それができたのだろうか。できるような素地が、祈りが、あったのだろうか。
 
教会の礼拝の祈りに、つねに医療従事者のための祈りを入れなければならない、などと言うつもりはない。だが、それがないどころではなく、リスペクトが少しも感じられない教会というものは、残念ながら実際にある。そこでは、口だけで神だ愛だと歯の浮くような作文を読み上げるばかりである。
 
いや、そんなことが言いたいのでもない。映画のエンディングロールに映し出される画面の数々、これが、実は隠れたこの映画のメッセージであるものだ、と私たちは勝手に受け止めた。これがまた、よかった。とはいえ、ドラマのメッセージは、常にこれである。
 
「待っているだけじゃ、救えない命がある」
 
これがドラマのモットーである。教会とは、救いを伝えるところではなかったのだろうか。



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