AIと礼拝説教

2023年4月30日

教会の説教が、(いまChatGPTで代表されている)AIにより作成されるとどうなるか。
 
こういう懸念は、ChatGPTが知られるようになってからも、すぐに聞かれた。最初は、そんなもの使い物になりませんな、みたいなコメントが見られた。木で鼻を括るという表現はそぐわないかもしれないが、高みから見下ろすような声のように私には聞こえた。
 
だが、その後そのAIの力が政府レベルで世の中で明らかになってくるにつれ、そのような見下す声は、少し減ってきたような気がする。いや、本当はそうでないのかもしれない。しょせんAIなんかが説教などできるはずがない、そんなものには「魂がない」、キリスト教は霊的なものだ、という空気がまだ漂っているようにも感じる。
 
私も素人に過ぎない。偉そうなことは言えない。だが、意見はもっている。まずは、甘く見ることはできない、という考えである。
 
電子書籍が出たとき、「やはり紙の手触りや、めくる感覚がないとね」などと、小馬鹿にしていた人たちがいた。しかしいま、半径5kmにあった書店がすべて消えた、ということをどう説明するというのだろうか。もちろん、書店が消えたのは、通販の隆盛やコロナ禍の影響だ、という説明は、正しいと思う。だが、それだけだろうか。実際いま電車の中で、マンガが多いとはいえ、電子書籍がどれほど読まれているかは、通販のせいにはしていられないのではないだろうか。
 
新しい技術は、たいてい、訳を知る年配の人々により、拒絶される。その新しいものにすっと入り込めない――多分に、ついていけない――オトナたちは、新しい技術の粗探しをし、欠点をあげつらうのだ。
 
2022年12月、ニューヨークで、あるユダヤ教指導者が説教をした。これはあるメッセージの盗用だと断って語ったが、内容に対して集まった人々は拍手を贈っていたという。そう、それはChatGPTで作成したものであったのだ。
 
その場では、ChatGPTのものであることを明かしたというが、恐らく、日本のキリスト教会で、もし何も明かさずに牧師が語り終えたらどうなるか、想像してみる価値はある。もちろん、いつもその牧師の話を聞き慣れた人からすれば、様相が違うことは必ず分かる。しかし、もし新任の牧師がそれをしていたら、分かるのだろうか。ゲストで呼ばれた教会でそれをしたら、バレるのだろうか。
 
AIが作った文章には「魂がない」などと最初にほくそ笑んでいた方々がテストされたとしたら、たちどころにそれはAIによるものだ、と見破るだろうか。「魂」をもっている人であれば、分かるかもしれない。しかし、テストされる側に「魂」がなければ、確かにそれは難しいことだろう。
 
よく持ち出す例だが、京都に行ったことがない者でも、最近は京都の話を組み立てることはできる。本やウェブサイトで情報を集めれば、それなりの説明を作ることは可能である。ちょっと聞くと、尤もらしく聞こえることもあるだろう。あまりよく京都のことを知らない人からは、物知りだと感心されるかもしれない。
 
だが、京都に住む人からすれば、これは実際に京都に来たことがない人の話だということが、見破られる可能性がある。しょせんネットの情報しか知らないで喋っても、そこには「魂がない」のである。もしAIが京都についての文章を書いたとしたら、それは何億というデータを参照している。しかし先の人物の場合、それより情報量が限りなく少ないから、質が悪いに違いない。AIで作成したほうが、きっと上等なのである。
 
甘く見ることはできない。これが私の最初の意見であった。なにしろネット空間のデータをいくらでも集めてきて文章を作成する能力があるのだ。完全に新しいデータは出てこないかもしれないが、逆に言えば、教会の礼拝説教が、つねに必ず新しいものを含んでいる、という保証がない限り、むしろデータを集めたもののほうが、落ち着いた論旨で、誤りがない、ということが起こりうるであろう。しかも、そのデータは日々増え続け、改善の一途を辿る技術である。ますますよくなっていく、というパワーを蔑ろにすることはできないはずだ。
 
次に、私の意見をもうひとつ付け加えなければならない。それは、説教を聞く側の問題である。
 
失礼な言い方だが、こうした情況を考えてみよう。AIの作った説教より「レベル」の低い説教が、現実に語られている。そしてそれに対して、会衆も我慢している。否、実は我慢していないというケースがある。それは、会衆がそもそも説教など聞いていない、という現状である。
 
説教要旨が誤字脱字、文章としておかしなもの、内容の間違い、そうしたものがあっても、誰も指摘しない。読んでいないからだ。聞いていても、おかしなところがあるか、という点に気づくような聞き方すらしていない。恰も、「お勤め」としてお決まりの忍耐の時間であるかのように、説教の場にいるだけ、というあり方が、教会の主要人物も皆あたりまえになっている。このようなことはないだろうか。
 
その説教で気づかされたことが、自分をハッとさせるような体験をしているのだろうか。その聖書の言葉が、それからの一週間を支えていくのだ、という聞き方をしているのだろうか。もしかすると、説教の時間が終わった瞬間、いま何について語られていたのか、記憶の中に何もない、というようなことが常態化していないだろうか。
 
AI作成以下の作文を、壇上で読み上げる。誰もまともに聞いていない、語るほうも聞くほうもただの忍耐の時間。儀式の時間。あるいは、よく見ても、せいぜい聖書の「お勉強」の時間。信仰生活をしているということの証拠としての、入場料か税金のような気分でそれを仕方なしに聞いているようなことは、ほんとうにないのだろうか。
 
その「説教」というものが、教案誌の内容を膨らませるだけであったり、せっかくだから少しばかり「お勉強」をして、ネットの情報を使って体よくまとめて、説教らしい形にした作文を読み上げる。そう、語る者に「魂がない」のはもちろんのこと、聞く者にも、そこに「魂がない」ことに気づかない、あるいは気にしないままに、毎週集まって世間話をにこやかにしたり、奉仕したぞという満足感だけを得たりして、「礼拝ごっこ」をしている。そういうケースを、いま考えている。
 
ひとつの結論。「魂がない」儀式を繰り返しているだけの教会であれば、AI作成で十分なのである。聖書の「お勉強」をすれば十分という場所でしかないところでは、それで問題はないのである。私は、すべての教会が生き生きと「魂のある」礼拝でなければならない、と決めつけてはいないのだ。その価値を決めるのは神であって、私ではない。私たちでもない。説教に「魂がない」のであっても全然構わない形だけの教会は、AI作成でよいではないか。
 
先日から話題になっている報道がある。政府がChatGPTの活用を検討している、と。業務負担軽減のために有効である、という見解によるものである。もちろん、それはいまのところすべての文書に適用することはできない段階である。だが、一定のルーチン的な文書に対しては、確かに有効であると言える面があるに違いない。セキュリティや誤りなどの問題が当然絡むから、政治的には簡単には実践できないだろうとは思うが、考えの筋道は理解できる。
 
そしてその議論が、大学の現場で真剣に交わされている。レポートを軽々しくAIで作られてはたまらない。というより、大学教育の意味がない。ただでさえ剽窃が時折問題になる学的論文の世界であるが、学位取得がAIでできるというのは、確かに拙いだろう。だが、現実的に、AIでアイディアを出させておいて、それをきっかけにして、問題を選択し、追究していく、という方法そのものを否定するものではない、というような姿勢を表明する大学も出現している。研究のためのきっかけをAIから得るということ自体を否定して、探究の可能性を狭める必要はない、というのである。それらの使い分けについて、どこで線を引くか課題はあるに違いないが、一概に退けるだけがすべてではない、という判断は賢明であろう。但し、誤った情報に歪められていくことにだけは、十分注意を払わなければならないだろうが。
 
こういう事情である。先に挙げたような説教には、「負担軽減」のために、どうぞAIを使われたらよろしい、と言っているのである。内容がなく、誰も聞かない作文のために何日も費やすようなことは、不経済であり、不合理である。意味のないことのために牧師に給与を支払う必要はない。牧師給与をなくせば、教会の経営危機の問題も解決される可能性がある。もし支払うにしても、その時間、病人を訪ねたり、地域活動をしたりするとよいのだ。
 
もちろん、そんな失礼なことを言うな、自分は「魂のある」説教を生み出し、語っている、会衆はそれを聞いて命がもたらされ、生き生きと一週間を生きていく力を与えられ、聖書の言葉に支えられてキリスト者として歩んでいくような教会生活の源となっている説教である、と言える説教者や教会が、たくさんあることを、私は知っている。神の恵みがふんだんに溢れている教会について何らケチをつけているわけではないのだ。
 
ただ、教会すべてにわたってそうだ、とは言わないだけである。大部分の教会は、説教という場において、神の言葉が命となって注がれているはずである。それでよいのである。そこでは、AIの出番は、少なくとも説教に関してはまだないし、多分にありえないのである。
 
語られるのは神の言葉である。そうやって生き働いていく教会は、AIと説教という問題について、なにも悩む必要がない。信徒が神の言葉に生かされる信仰生活をしている教会が、望ましいと私も思っている。だから、教会もその意味において、二極分化するのだろう、との見解をもっているというだけの話なのである。



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