処女降誕について

2023年4月21日

本当に処女降誕など、信じているのですか。キリスト者であれば、そう尋ねられたことがある人がいると思う。中には、それに耐えられないのか、それは事実ではない、と世間に与する発言を公にするような信徒もいるだろう。事実だと信じているわけではない。だからそれを、聖書に書いてあることは真実だなどという立場のグループは、どうかしている、そのように言い切る人もいる。引用したイザヤ書の言葉と新約聖書のギリシア語とでは意味が異なる、という合理的な説明を持ち出す人もいる。
 
思えば、新約聖書の最初の四巻は「福音書」と呼ばれるし、いつの間にか「福音書」だと呼び慣れてしまっているが、実はそれはとても不思議なタイプの文学形式ではないだろうか。
 
なにもここで、「福音書とは何か」を解明しようというわけではない。そんなことはできない。定義しようなどという大それたことに挑戦するつもりもない。ただ、私たちが一般に「物語」と呼んでいるものと同一視してはならないし、その他「伝記」であれ「評伝」であれ、私たちが思いつく限りの現代の文学分野の範疇で決めつけるべきものではない、としておきたいと思うのだ。
 
マリアは、ヨセフというパートナーは得たが、そのパートナーと二人の力でイエスを産んだのではない、というのが、マタイやマルコが描いた、イエス誕生の場面であった。ヨハネによる福音書は、イエスの母をマリアとして登場させるが、出生がどうという説明はしなかった。ただ、冒頭にて、ロゴスとして神と共にあったなどと神秘的な表現で、イエスの由来について語ることをした。
 
処女としてのマリアの姿は、後のカトリック教会にとり、殆ど信仰の核心のことのようにもなってしまい、引っ込みがつかなくなったようにも見えるが、半分の福音書しかその点については触れていない。十字架と復活が、四つの福音書すべてに描かれているのとは対照的である。
 
イエスは、通常の人間の生まれ方とは異なる。マタイやルカが描いたことを抽象的に述べれば、そうした構造になるだろうか。このイエスは、その後、つまりいまの私たちにとっても、自分の中から生まれるというあり方をすることはないだろうか。私の心の中に、イエスが生まれる。時にクリスマスのメッセージでも、そうした言い方がなされることは、実際あるように思うのだ。実際に聞いたこともあるし、聞いてなるほど、とも思った。
 
このクリスマス、世にイエスが来てくださり生まれたように、今日、あなたの心の中にイエス・キリストが生まれるように、と願っています。――こんな終わり方をするメッセージである。これをロマンチックな、非現実的なものだ、と非難する必要はないと思う。実際に、私の内にキリストが生きている、という思いがここにある。十字架のイエスとパウロとの間で成立した記述に留まらず、私たちもまた、自分の中にキリストが生きていること、つまりあるときにキリストが生まれたということ、それは非常に納得のいく信仰のひとつの姿であると思うのだ。
 
私の中に生まれるキリストは、もちろん人間の誕生の普通のあり方で生まれるわけがない。いわば聖霊により生まれるのである。これは、マリアにおいてイエスが生まれることと、同じようなこととは考えられないだろうか。もちろん、マリアを通して生まれたことと、私たちにキリストが宿るということとを単純に同一視はできない。マリアの抱えたリスクと受けた迫害なり命の危機なりを、私たちが受けているとは限らない。だが考えてみれば、信じたことで、その迫害を受ける人は、いまも世界で、あるいは生活環境で、多数いるわけだ。そのときには、ひとりで宿し、ひとりで育てたマリアと、同じ経験をしていく、という理解も、十分可能ではないだろうか。
 
ニコデモが、新しく生まれるということについて、とんちんかんなことをイエスに訊き返した、ということは、ともすれば現代の私たちから見ると笑い話のようなものになるが、このキリストが自分の内に生まれるという事態にも、関係するところがあるようにも思える。
 
処女降誕が有るのか無いのか、そういう議論をするためのエピソードではないと私はまず思っている。マリアのような経験を覚えない信徒は、いないのではないか。自分の中での信仰の誕生と、復活のキリストの命が自分の中に生きているという確信は、キリスト者の命の神髄であるはずなのである。聖霊の働きと呼んでもいい。自分が神を造り出したり、選び出したりしているのではないならば、聖霊から働きかけて、私に命を注いでくださったという信仰の事実があるわけだ。
 
おとめマリアより生まれ――使徒信条で唱えるその主は、歴史の教科書を論じる文脈にはない。強いて言えば、歴史の中に介入した神が、歴史の中にいるいまこの私の内に、聖霊によりて宿り、生まれたのだ、という信仰の告白がここにあるのである。私はそのために、苦しみを受けるかもしれない。十字架を背負い歩き、十字架につけられるかもしれない。キリスト者は、一人ひとりが、キリストのひとつの姿を証しするものであるに違いないのだ。
 
まだその体験を確信できていないあなたの内に、キリストがお生まれになりますように。それは、あなたが一度死に、新たに生まれるという形で起こる出来事でもあるはずなのだ。



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