エマオ行きの道にて

2023年4月10日

イエスの復活を記念する礼拝となると、イエスに会いに行く女たちや、ペトロなどの弟子たちの姿をまず思い浮かべることだろう。それまでイエスに従ってきた人物たちこそが、無惨に殺されたイエスがよみがえったときに、まず出会うべきだという暗黙の希望のようなものが、私たちの内にはあるものだ。
 
しかし、復活のイエスに、その場で初登場の人物が関わるとなると、少しばかり戸惑わざるをえない。小説のラストシーンに、初登場のキャラクターが現れて幕を閉じる、というのは、期待にそぐわないに違いない。
 
だがルカによる福音書は、この禁手をやってしまった。エマオへの道での物語である。復活のイエスに出会うのは、弟子だと紹介される二人。一人は名をクレオパというが、もう一人は最後まで分からない。ここまで登場した覚えはない。いったい誰? 読者は皆思う。それとも、ルカのいた教会共同体にいた、よく知られた人だったのだろうか。
 
気にするのは私だけなのだろうか。説教者は、そういうところに拘泥するような人ではなかった。それよりも、この二人の人物を描くルカの筆致が、初めと終わりとで対照的である、というところに、聴く者の心を準備させた。
 
二人は、イエスを慕っていた。いつかイスラエルの復興を果たす人物だと期待していたのだ。それが、死刑囚として十字架で殺されてしまった。それから3日、今度はイエスの遺体がなくなったというではないか。
 
これを聞くまでに、イエスのほうから、二人に近づいてきていた。そして、クレオパが説明したとき、「二人は暗い顔をして立ち止まった」(24:17)のだった。ひとつの場面は、ここである。
 
この後、歩きながらの話が延々と続いた様子である。目指すエマオという村に近づいたとき、「そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いています」(24:29)と二人がイエスに話したために、家に泊まることになったという。つまり、ここまでは、日中のことであった。しかも、ルカの記述によれば、イエスが蘇った朝に続く、正にその昼なのである。
 
明るいはずの日中に、二人は暗い顔をしていた。これが、説教者が人々にイメージさせた、ひとつの情景である。
 
そして、すっかり日が暮れたであろう。食事が始まり、イエスのパン裂きがあったとき、「二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(24:31)のだった。そして「私たちの心は燃えていたではないか」(24:32)と活気づく。
 
暗いはずの夜に、二人の目が開け、心が燃えていたことに気づいたのである。これが第二の場面である。これら二つの情景が、見事な対比をなしているではないか。
 
これから二人は「すぐさま」(24:33)立ち上がり(これは勇敢に行動を起こすことを表す)、エルサレムに戻ったというのが、果たしてどのような夜であったのか、まだ夕刻であったのか、それは私には分からない。ただ、この二人が、いわゆる使徒たちに面会できるほどの立場にあったということが、ここから見てとれる。ユダこそいまはいないが、十二使徒と面と向き合うほどの人物だったのである。
 
しかも、そこでイエスのほうからまた現れている。イエスが、彼らの真ん中にいた。果たしてそれは霊なのか。いや、「まさしく私だ」(24:39)とイエスは言った。霊ではない、と告げる。そこには、イエスの手と足があった。
 
私たちは、明るい光の最中で、暗い心でいることがないだろうか。説教者はそれを「孤独の闇」と呼んだ。ひとには、様々な孤独感がある。実際に語り合える相手がいないという場合もある。いくら親しい人、信頼できる人がいたとしても、究極的に孤独だと感じることがあるかもしれない。ひとは所詮ひとりで死ぬのだ、と寂しい心を懐いている人もいるだろう。否、社会でも問題になっているような、自分の中に閉じこもっている人、またそれを打開したいのにどうしようもない、ということもあるに違いない。えてして、そうした人は、優しい。人に傷つけられること、あるいは人を傷つけることを恐れて、人との交わりの場を避けるという考えの人もいるのだ。とても優しい故に、愛ある交わりを求めているのに、世間ではだまし合いや裏切りが横行して、それがさも当然の社会であるかのようにせせら笑う風潮があるとすれば、そこに入れないのである。
 
もしもそれをも「闇」と呼ぶしかないのであれば、私はその「闇」を、むしろ人間の真実の道だと捉えたい。よく「心の闇」などというが、しばしばそれは「闇」と呼んではならないものではないか、とすら思うのだ。「世人」として本来的自己に対する欺瞞を常識として頽落している姿が、世に言う「明るい」人間であるのだとするのなら、「暗い」人間のほうが、実は本来的に生きる実存であるかもしれないではないか。
 
だが、そうした慰めも、力が弱い。やはり辛いのだ。だから、神がそこにいる。神は、そういう誠実なものを求めている人と、ちゃんと共にいてくださるのだ。それが見えるような「心の目が開かれることを願います」というようなことを、説教者は告げた。復活のキリストに触れてほしい、と祈る。
 
落胆することが、人生にはある。誰にでも、きっとある。ひとは、どこかでエマオ行きを経験する。説教者はそう話す。その道行きに、イエスのほうから近づいてくるというこの場面が、これまた誰にでも、現れるチャンスがあるはずなのだ。あなたがイエスを呼ばなくても、イエスのほうから来てくださる。ただ、それがイエスなのだ、ということが当初は分からない。だから、何かしらその可能性があるようなチャンスが近づいてきたなら、私たちはせめて、次のようなフレーズを準備しておこうではないか。
 
「一緒にお泊まりください……」と言って、無理に引き止めた。
 
そう、無理にでも。
 
 
さて、蛇足ながら付け加えておかねばならないことがある。初めのところで、物語の結末のところで、突然初登場の人物を出すのは奇妙だ、と私は受け止めたことをお話しした。一人の名だけがクレオパと書かれている。もしかするとヨハネ19:25で、イエスの十字架のそばで見守っていた一人「クロパの妻マリア」が、クレオパの妻かもしれない、という話もある。どちらも「クレオパトロス」の省略形だからである。教会の重要な人物である可能性はますます高まるであろう。その名の意味は「立派な父」のようなものであるが、その名が何かを象徴しているようには見えない。だから、実在の人物に関わらせているという解釈が可能なのである。
 
しかし、蛇足なのはその点ではない。物語の最後にいきなり飛び込んできたこの人物は、いったい誰を重ねていると言えるのだろう。そこである。それまでは福音書の物語の中に登場してこなかった。それが、復活のイエスの登場と共に、彼らは現れる。墓を訪ねた者たちは、空の墓は見たが、イエスを見ていない。そこへいくと、この二人はイエスを見ている。復活のイエスに、初めて会っている。
 
復活のイエスに出会った人が突然現れているのである。これを、読者としての私である、と読むのは、さて、禁手の読み込みすぎなのだろうか。この提言が、その実感のない人にとっては、全くの蛇足なのである。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります