【メッセージ】見ることは信じること

2023年4月9日

(ヨハネ20:1-31)

これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じて、イエスの名によって命を得るためである。(ヨハネ20:31)
 
◆復活の物語
 
「村上復活」がしばしTwitterのトレンドに入っていました。先月21日の、WBC決勝大会のメキシコ戦の報道です。それまで不振に喘いでいた村上選手が、逆転サヨナラ打を打ったことでした。
 
このように「復活」という言葉を、私たちは当たり前のように使います。しかしそれは、かなり比喩的な意味のようにも感じられます。聖書において「復活」は、「死んだ者が生き返ること」以外の何ものでもありません。
 
キリストは死んで、蘇った。この基本線を崩すものは、キリスト教とは関係がありません。いくら聖書についての知識を詳しくもっていても、その人はキリスト教徒ではありません。明確にご判断ください。
 
しかし死者が蘇るというのは、現代人はもちろんのこと、やはり古い時代からも問題になっていたようです。
 
死者の復活ということを聞くと、ある者は嘲笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。(使徒17:32)
 
ギリシアのアテネにやってきたパウロは、知恵のある人々を前にキリストの復活を語ったところ、嘲笑されてサヨナラと言われたのでした。
 
パウロはこの事件の前だか後だから知りませんが、コリント教会宛の手紙の中で、かなり幅をとって、熱くこの「復活」について論じたことがあります。理屈で攻めたようにも見えますが、論理的にはなにも復活の証明になどなってはいません。しかし、パウロの信仰における「復活」について、余すところなく語っている、というように読めるだろうと思います。また、だからこそ、コリント教会の人々も、ギリシア系でありましょうから、アテネの場合と同じように、「復活」については理解や信仰が薄かったのではないか、とも見ることができるでしょう。
 
この復活についてですが、もちろんそのままに信じる人がいます。いまもいます。いえ、キリスト教会であるということは、復活を信じない人はひとりもいないはずです。ただ、個人的にもし問うならば、たとえば、なんらかの象徴的な解釈をしようとしている人がいます。知的に、理屈で説明したいのかもしれませんが、新約聖書を見ると、すでにパウロはそうした捉え方を蹴散らしているようにも感じられます。
 
復活のイエスの物語を、語るにいちばん相応しい日です。復活を記念する礼拝です。それで、いまここで復活のイエスに会いたいと思います。皆さまには、このイエスに会って戴きたいと願います。そうした思いを懐きながら、ここからイエスの復活にまつわる話を語ることに致します。
 
◆百聞は一見にしかず
 
聖書の復活の記事には、その目撃者の話が掲載されています。自分は「見た」と証言しているのですから、さて、その「見た」という証言を信じればよいのか、それとも、幻視や幻想ではないか、という疑いをもちつつそれを聞けばよいのか、そこが問題となります。
 
見ることは信じること。「Seeing is believing」の英語の諺を訳すとそうなりますが、それは日本語に置き換えると、「百聞は一見にしかず」とされるのが一般的です。
 
この「百聞は一見にしかず」という諺について、ある高校入試対策の「国語」の読解問題に、興味深い文章がありました。
 
それによると、言葉の意味が元の意味で使われなくなる傾向についての文章で、実例に、この「百聞は一見にしかず」が上がっていたのです。高校生たちに、この諺について議論させたところ(アクティブ・ラーニングとしていまよく行われる)、聴覚よりも視覚のほうが情報を多く得る、といった形に流れていったというのです。そのとき筆者は口出しはできない立場だったのですが、心の中で、そうではないのに、と思っていた、というように書かれてありました。
 
つまり、これは視覚と聴覚の問題ではないというのです。「百聞」というのは、自分では経験したことがない形で得た情報であり、たとえテレビで「見た」としても、飢餓や戦争の情況は、「百聞」の範疇にあるのだ、ということになります。「一見」は、お分かりのとおり、自分で実際に経験したことを指し、自分にとり真の知識となっていることを意味します。
 
第一、これが視覚と聴覚の問題であれば、視覚障害者はいくら勉強しても知識が身につかないようなことになってしまいます。諺が配慮をしていたのではないかもしれませんが、そこでふと思うには、昆虫記のファーブルが言ったという「見ることは知ること」(英語だとIt's to know to see)も、視覚だけでなく、観察と研究に基づくことを意味していると考えると納得できるような気がします。
 
従って、先ほどの「見ることは信じること」は、英語の「百聞は一見にしかず」と単純に等しい扱いをしてよいかどうか、考えてみる必要がありそうです。
 
「見ることは信じること」は、英語バージョンでは、恐らく「目で見れば信じられる」というようなことを言いたいのではないでしょうか。「神が存在するならどうして見えないんだ。目で見たら信じてやるよ」というような口調に似合いそうです。私たちは、福音書に幾度も出てくる、この「見た」という証言を、どう受け取りましょうか。依然として、読者としての自分が見ていないから信じられない、というのもひとつの態度でしょう。「見た」という人々の証言をどうするか、というのは、私たち一人ひとりの態度であるべきなのでしょう。
 
それにしても、この「目で見れば信じられる」という言葉は、正に今日のこの場面に出て来たものでもありました。
 
◆見る
 
長い聖書箇所となりましたが、取り上げた中に、イエスの復活に関して「見た」と言った弟子たちの三つの場面を追いかけてみましょう。彼らが何を見たかという点は、すでにお読み戴いたので、ここでヨハネが駆使した「見る」という動詞の違いを、簡単に学んでみたいと思います。ギリシア語を偉そうに並べるつもりはありませんし、調べたところで私の語感で、至極単純にご紹介するに過ぎません。学問的な価値はありませんから、どうぞ半ば与太話として少しばかり聞いてくださると、こちらも気が楽になります。
 
三つの場面というのは、ペトロ・マグダラのマリア・トマスについてのエピソードです。それぞれの場面における「見る」という動詞に注目します。
 
5:身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあるのを見たが、中には入らなかった。
 
これは、走って先に着いた、もう一人の弟子でした。ここにあるのは「ブレポ」という動詞です。視覚的なものですが、見る人の考えを強調するような解説がなされていました。
 
6:続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
 
今度はペトロです。「テオレオ」という動詞です。これはより注意深く、詳細を知ろうと見つめる様子を示す性質のある語であるそうです。観察するような感じだと言えばよいかもしれません。そして再び、もう一人の弟子が見たことに触れられます。
 
8:それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も中に入って来て、見て、信じた。
 
これは「ホラオ」という動詞です。ただ視覚的なだけではなく、心理的に捕らえることや、知恵を示す場合にも使われるそうです。
 
このように、一連の過程の中で、「見る」ことがより深く心に刻まれていくような印象を受けます。
 
次はマグダラのマリアですが、そこには先ほどの「テオレオ」が使われていました。注意深く見つめている様子を表すと先ほど申し上げた語です。
 
12:イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が、一人は頭の方に、一人は足の方に座っているのが見えた。
14:こう言って後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。
 
特に12節で「見えた」と訳してあるところには注意が必要です。「見えた」という語感は原文にはありません。「見た」のです。目に映ったのではなく、マリアはしっかりと目撃しています。復活の出来事は、なんとなく見えるのではなく、見つめるべきものだと思うのです。
 
最後に、イエスが復活して弟子たちのいるところに現れたことと、その場に居合わせなかったトマスがその出来事を疑ったという場面です。
 
20:そう言って、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
 
福音書記者の狙いは、疑ったトマスのほうにあると思われますから、ここはその前提というか、前置き的な説明です。弟子たちは、復活の主が現れたのを見ました。これは「ホラオ」です。目で見たことを、心でよく受け止めている感じが伝わってきます。ところがそのときその場にいなかったトマスに、そのことを目撃者たちが報告します。
 
25:そこで、ほかの弟子たちが、「私たちは主を見た」と言うと、
 
これも同じ「ホラオ」です。なるほど、そうだと思います。それに対してトマスは、そんなこと信じられるか、と反抗します。もしかすると、自分だけ疎外されて寂しい思いをしていたのかもしれません。
 
トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない。」
 
イエスの手の釘の跡を見なければ信じない、というその「見る」ことも、やはり「ホラオ」です。トマスもまた、深く心で受け止めたかったのではないか、と推察されます。
 
8日後、今度はトマスも弟子たち一同と一緒にいるところに、復活のイエスが現れます。イエスは、トマスの先週の疑いの一件をすっかりご存じです。挨拶の言葉をかけた後のことです。
 
27:それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。
 
これは、強く注意を促す言葉の「イドゥ」でした。ユダヤ的語法として、旧約時代から、相手に注意を向けさせるときに、先ず「見よ」と呼びかけることがよくあります。邦訳でも何百と使用例が出てきますし、さらに邦訳では省略されて訳出されていない例もありますので、実に頻繁に、聖書は「見よ」「見よ」と語りかけていることになります。イエスはトマスに、掌の傷痕に、強く注意を向けさせたことになる、と捉えればよいでしょうか。これに対してトマスはもう疑うことはせず「私の主、私の神よ」とイエスに告げます。
 
29:イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」
 
ここには「ホラオ」がありました。心の内に深く刻む響きを感じることができます。しかし、そうやって見ることにもまして、「信じる」ことを優先させているように感じてしまうのは、私だけでしょうか。
 
◆それぞれの体験
 
ペトロやもう一人の弟子が見たのは、空の墓でした。イエスを直接見たのではありません。死んだならばそこに寝ているはずのイエスの遺体がなかった。だから復活したと信じた。死を見なかったから、死を否定したから、生があるという推論に至ったというふうに捉えてみましょう。これもまた、信じ方のひとつであることは確かです。
 
マリアも見ました。「見えた」のではなく、「見た」ことを先ほど強調しました。天使が「見えた」(12)というのも、「見た」(本当は現在形の「見る」)のであって、天使やイエスを直に見たこと、しかも注視したことを伝えます。
 
弟子たちやトマスは、復活のイエスを、深く心で捉える見方をしていたように私たちは受け止めました。特にトマスは、自分が疑ってかかっていたことを、よく心で受け容れたことになります。しかし、そうやってやっと心に感じて信じたということよりも、さらにイエスは、その前にまず信じたらもっと幸いであるのだ、と告げました。
 
私たちに対して、福音書記者は、復活のイエスに対する別々のパターンを見せてくれたような気がします。つまり、あなたはどのようにイエスの復活を見ているのか、と問いかけているのです。私は、問いかけられているのです。
 
ペトロのように、否定の否定により信じる道もあろうかと思います。「神がいるというのなら見せてみろ」と迫る人が時々います。しかし、見えないところに神を信じるというところに、ひとつ足場をもっていることは、きっとひとつの必要な道なのだろうと思います。
 
マグダラのマリアのように、復活のイエスの姿を注視するようなことは、私たちにできるでしょうか。幻視と言われそうですが、経験する人もいます。ただ現実には、見たいと思って見ようとしても難しい側面があります。
 
ヨハネの福音書と同じグループの文書とされるものに、ヨハネの手紙というものがあります。その冒頭は、「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの、すなわち、命の言について。」(ヨハネ一1:1)と始まっていました。ここは「ホラオ」です。やはり心に深く刻んでいるものですが、逆に言えば、視覚的情報に頼らない見え方が可能であるように解釈することが可能かもしれません。
 
トマスのように、「見ないと信じない」、というのは、現代人には普通なのかもしれませんが、私たちキリスト者も、案外その傾向があるのかもしれません。「Seeing is believing」という英語の諺があることに、初めに注目しました。それは「百聞は一見にしかず」とは少し違うのではないか、と考え直しました。「目で見れば信じられる」という角度からその言葉を捉えるならば、現代人一般のみならず、信者といえども、しばしば陥りやすい罠について自覚できる箴言となるかもしれません。
 
聖書はひとつの意味を提供しているというよりも、聖書に触れた者、聖書に正面から出会う者が、自分はどのような受け止め方をしているか、問い直される場を提供しているように見受けられます。私たちはいつも、どのように物事を見ているか。同じ「復活」という言葉を使いながら、いったいどのような「信仰」によって、それを見ているか、問い直されているのだと思うのです。
 
◆宗教2世
 
この問題は、いま社会的にも大きな話題になっている、いわゆる「宗教2世」ということにも関わってくるように思います。ただ、同じ「2世」といっても様々なケースがあり、一人ひとり考え方も違います。その宗教によってはかなりデリケートな問題もありますから、ここでも、十把一絡げに扱うつもりはありません。どこかでつながることがあればいい、という程度でお話しすることにします。
 
これはマスコミの問題でもあるでしょう。スポンサーの顔色を気にしなければならない宿命にある民報の報道では、どうしてもセンセーショナルな仕方で注目されようとするし、主張も単純化して分かりやすく報じるという必要があります。それで、宗教を親が押しつけるのはけしからんとか、これは「信教の自由」の問題であるとか、正義の旗を掲げがちになりますし、宗教団体は虐待をしているなど、問題を派手に指摘することを使命としているようにも見えてきます。
 
えてして、宗教教団に熱心であることに、日本の人々は抵抗を示す場合があります。しかし、仏壇に手を合わせ、神社に詣でるわけですから、宗教心は豊富です。今回の2世問題は、2022年7月に、奈良県で殺害された安倍晋三元首相の事件にもちろん基づきます。統一協会に家庭を壊されたとする容疑者が、教会活動に参与していた元首相に恨みの矛先を向けたようなものでした。もちろん、捜査は続いていますから、事件の概要についてもここで推測による断定めいたものは控えます。
 
結論からすると、親が子どもに大切なことを信じる心を教えること、そのものを控えてはいけない、というのが私の考えです。信教の自由を侵すなどという意見がありますが、そもそも子どもが何かの信教を有している前提から、親がそれを侵しているというケースは稀なはずです。子どもは何らかの前提を親から与えられます。詳細な検討は別として、白紙の心に親やその家の前提を据えられる必要があるのは確かです。政府が、学校教育の場でのトラブルを、家庭教育の問題だと指摘することがある中で、その家庭教育をしてはならない、というように思わせるような恰好で、信教の自由という言葉を利用してはならないと思うのです。
 
とはいえ、現実に虐待や犯罪が行われているケースがある点については、注視しなければならないし、その被害に遭っている子どもたちに対しては、緊急の、そして心に受けた疵についての先の長いケアをする必要があると思われます。目を背けたくなるような事態が多々あるのは事実であり、今回の事件後に上がってきた「宗教2世」問題は、基本的にそこのところの部分であるはずです。
 
それを、その「宗教」という部分の言葉を、一定の宗教教団に属さないつもりでいる人々が、何にでも手を合わせるような宗教心とは違う教義を引き受ける信仰者たちに対して、それは異常だと刃を向けるかのような形で、「宗教」と称するものが悪であると断ずる空気が漂っていることには、別の意味の危機を覚えるわけです。
 
「星の子」という映画が2020年に公開されました。小説はその3年前に刊行されていましたが、私は映画で初めて知りました。病弱に生まれた主人公の女の子が、新興宗教の提供する水で治ったことから、両親がその教団に傾倒していきます。そしてその女の子も、その教団の中で育てられていくのです。中学三年生の主人公を、芦田愛菜さんが好演していました。教団の儀式やイベントは、異様な雰囲気はありましたが、私はそれを見て、キリスト教会も、外から見ればこれと同じようなものとして目に映っているに違いない、と教えられました。
 
主人公も、自分にとり信仰とは何だろうか、と自問し始めます。親も虐待をするなどはしていません。さしあたり彼女はその信仰を棄てるという結末にはならないのですが、しかしかなり客観視する目が育ってきていました。この問題の解決は、受け手側に委ねられていたのだと思います。いわば問題提起の役割を果たしていたのだと思います。
 
聖書も、その意味ではひとつの物語として、ひとの心に問いかけてきます。聖書に書いてあることを教義として打ち立てて、その通りに行動なければならない、と受け止めるのが、一部の強圧的な教団やカルトと呼ばれる集団にありますが、それよりも、あなたはどうするのか、という方向でまずは受け止めていくべき場合が多々あるような気がしてなりません。
 
◆問題の本質
 
この「2世」問題と言われる事態の中で、実は深刻に、しかも潜在的に拡がっている問題を、もしかすると私たちは見落としているのかもしません。
 
2世と呼ばれる人々は、1世の人のような、信仰を知らない人生を歩んだわけではありません。1世は、あるとき信仰を得ます。それまでの自分を否定しなければならない事態に出会い、回心を経験します。しかし2世の人は、生まれたときから教会に行っています。1世から見れば、それは恵まれたことであるように見えますが、本人にしてみれば、まるで空気のように、教会や信仰の中で育ってきました。神を疑うようなこともないことが多いにしても、自分が神に救われた、というインパクトのある体験を得ることができない場合が珍しくないと思われます。
 
自分は神を信じている、きっとそうだろう。だが、本当に信じていると言えるのだろうか。信じていなかったという経験のない中で、信仰を求める人の気持ちというのがよく分からない。神がいることについても、毎日自然にごはんを食しているようなもので、それをことさらに大切なものとして意識することも、ないかもしれません。
 
しかし、できるならこれを信仰という形で自分のアイデンティティにしていくことが、一番適切ではないだろうか、とも思いつつ、もうひとつ煮え切らない――勝手な想像ばかりしていますが、もちろんすべての「2世」がそうであるなどと決めつけているのではありません。ただ、それに似た図式が、「そうかもしれない」と思えるような場合が、あるのではないか、そう感じるのです。
 
このギャップとその悩み、それは、犯罪的な事態にならない領域での、2世問題のひとつの重要な観点として必要ではないか、と私はよく考えています。
 
◆復活を信じる
 
すると、この復活ということについても、そう聞き慣れた2世の人々は、ことさらに疑わない場面が多いような気がします。それは、「仏様がね……」と聞かされて育った子どもが自然と仏像に手を合わせるのにも似ているし、「いただきます」と手を合わせるのが当たり前になっている国民性が、ふと沸き起こった懐疑心によって消失するようなことがないことからも、分かります。
 
第一、復活のイエスそのお方が、1世だとか2世だとか、そういうことに、区別をなさるでしょうか。イエスはそこにいます。それは当たり前のことなのです。特別な眼鏡をかけなければ見えないようなお方ではありません。空気が存在することは、目に見えなくても誰もが信じています。いえ、信じるなどというレベルにもってくる以前に、当然そこにあるといまの時代は誰もが考えています。もはや、十字架からの復活は、新約聖書がある以上は、当たり前のことなのです。
 
もしそれが、万人に客観的に存在することが確定していたら、それはもはや信仰とは呼べません。鉄が存在するように、猫が実際にいるように、当たり前のことであって、それを信じましょう、などという発想自体が、ナンセンスなものとなるでしょう。
 
鍵は、その復活を、ひとが――あなたが――信じている、と意識しているかどうか、そこにあります。復活を信じたとき、人生が変わるからです。ただ信じたとき、人生は変わります。一度死んだ上でなければ、復活という概念はあり得ません。これまでの自分が死んだと強く意識している人もいれば、そんなドラマチックな経験などないという人もいます。それでも、それぞれの経験です。これから経験する人もいることでしょう。復活を信じたときに、経験するとしても、全く構わないわけです。
 
ただ、どうであれ、イエスは復活して、そこにいる。確かにいる。聖書はそう告げています。そのことについては、聖書のどの記者も、揺らぐことはありません。聖書は、あなたが信じるようになるために、書かれたものです。復活祭は、そのひとつの門出に相応しい時であるかもしれません。
 
あなたの内で、イエスは復活したでしょうか。あなたの中で、光が射すのを感じたでしょうか。不安で暗い印象しかなかった未来が、その光で明るく照らされたとしたら、そしてすきま風に冷え切っていた心が、何か急に温かな気持ちになったなら、イエスはあなたの中で復活したに違いありません。あなたはその復活の命の中に、引き入れられているはずです。
 
それを信じたとき、復活のイエスが、深く心の中で、生きていると感じるに違いありません。



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