復活の礼拝は真実であるか

2023年4月9日

キリストの復活は、死からの復活である。死んだからこそ、それを復活という。キリスト者は、一度死んだのである。そうでなければ、復活はない。否、これから誰もが死ぬではないか。その後に、復活するという信仰があるわけだから、いますでに死んだというのは可笑しい、そのように言う人がいるかもしれない。しかし、少なくとも聖書の表現は、随所でそのように決めつけてはいないようである。私たちはすでに、新しい命に移されているという体験を語る言葉がある限り、死んで、生きる経験をもっているとしか言いようがない。そして、現在でも、命あることを語るキリスト者は、そのことを証しする。つまり、確かなこととして証言するのである。
 
この一週間、キリストの十字架を思い続けるための場所を開いた教会もある。じっくり思いを深める時が与えられるのはいい。
 
ただ、この時期は日本においては年度末にあたる。例年、いわゆる「イースター」がどちらの年度に属するか、それ次第では予算の立て方も変わってくるという、厄介な事情があるのも事実だ。つまり、3月下旬から4月中旬の中で不定期に計算される「イースター」だと、どちらの年度に属するか、が年によって異なるのだ。ある年度には「イースター」は一度もなく、ある年度には二度くる、ということになる。
 
それでまた、年度により牧師などの異動がある場合も、その「イースター」行事を誰がどう扱うか、取り決めをしなければならないことが起こる。
 
「イースター」が4月にさしかかった今年、ある教会で、年度末の礼拝が、牧師の壮行の意味を込めた礼拝となった。もちろん当教会での最終説教である。この人はまだ若い牧師だったが、すでに教会は、より少し年長の、だが何の経験もない人物を、牧師に招いていた。この人物については、聖書に関することについても人間的にも問題だらけだという点で、私からの評価は全く揺らぐことはない。この人物が司会を務めたのだが、説教へと渡すときに、冗談で笑いをとった。
 
憤るしかなかった。神の言葉を語ることのできない者が、神を背に説教をするという役割を果たせないのは当然であるが、先輩に対するリスペクトもなく、その最終礼拝で笑いをとろうなどという冒涜に出たことに、礼拝参加者は怒りを感じなかったのだろうか。以前、この人物は、講壇で原稿を読んでいる途中、原稿の一部をどこかに置き忘れてきたことがあって、何分間か穴を開けたことがある。このことを、ギャグにしてまた講壇で笑いのネタにさえしたことがあったが、あのときもどうやら誰も咎めることはしなかったようだった。誰も説教など聞いていないし、礼拝をするということが行われていないとしか思えない。
 
もはや礼拝というものが、その教会では成り立っていないと断定せざるをえない。
 
神の言葉を語る者は、一応会衆の方を向いて語る。中には、会衆と同じ方向を向いて語るという教会もあるかもしれないが、説教者は、会衆に向けて語る。それは、神を背にしている向きである。まるで背信のように見えなくもないが、実は神に代り、神の言葉を語る預言をしているという形になっている。礼拝式は、神から人への言葉と、人から神への言葉とが交流するプログラムになっていると考えられるが、中でも説教は、しばし長い時間、神から語られるという設定の中でのひとときとなる。これを語るために、説教者は、労力と神経を使う。己れは神の言葉を語る資格があるのか、毎度毎度そう自問しながら、神から与えられる言葉を聞き、祈りを重ねて、語ることを定めてゆく。
 
復活を記念する礼拝は、実は毎週あると言ってもよい。日曜日を、礼拝の日とするのは、イエスが蘇った朝だからだ。ユダヤ教では、金曜日の日没から土曜日の日没までが安息日であった。キリスト教会が日曜日を礼拝の日とし、その意味で安息日を変更したのは、蘇りに基づくわけであり、毎週が復活記念である背景がある。だが、一年の教会暦の中では、この春の時期に、復活祭を祝う。太陰暦を基にした計算であり、ユダヤ教ではいまもそれを重視しているが、キリスト教では、比較的簡素な方法で、ユダヤ式に似せてこの復活祭を定めている。イエスは、ユダヤの暦における過越祭のときに処刑されたことが、福音書から明らかだからである。
 
人間の定めであるかもしれないが、復活を思い切り語る一日があるのはいい。だがそれは同時に、イエスの十字架の死を語る日でもある。キリストの復活は、死からの復活である。死んだからこそ、それを復活という。キリスト者は、一度死んだのである。キリスト者は、かつて死に、そして生かされた。蘇らされた。立ち上がらされた。命を与えられた。神と出会ったためにそうされた者は、聖霊という姿の神を迎え入れて、いつも神と共にいることになる。だが、週に一度というリズムで、神は礼拝に招待してくださった。ある意味でおかしな表現であるのだが、キリスト者は、神に会うために礼拝に行く。
 
人間しか見えない者は、その礼拝で、人の方を向き語ることは許されない。信じる一人として中に加わることを拒む理由は何もないが、神の言葉を語れない者がそのようなことをすると、いわば神の言葉を詐称することとなる。きっと、神を礼拝したことがないのだろう。礼拝するということを知らないのであろう。そしてそれを聞き続ける者は、詐欺を本物として騙され続けることになる。確かに、尤もらしいことが語られている。だが、本質的で決定的な真実がそこに完全に欠落している。励ましはあったとしても、救いがない。それなのに、いつの間にか、それが礼拝だと思い違いをし続けてしまうことになる。すると偽物を福音として信じることになるから、その魂を蝕むこととなるであろう。傍から見ると、どうして気づかないのか、不思議でならないが、人間そういうものだということも理解はできる。
 
かつて旧約の預言者たちは、そうしたことを口を酸っぱくして警告してきた。パウロなど新約の預言者もまた、そうしたことを体を張って訴え続けてきた。聖書は、昔も今も同じようなことをちゃんと伝えている。
 
あなたの居場所でのその復活の礼拝は、真実であるだろうか。真実なる神を、礼拝しようではないか。私たちも、真実たろうとしようではないか。真実にはなりきれないにしても、イエス・キリストは真実であるのだから。



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