マタイ受難曲

2023年4月7日

塾業界に(と大きく出たね)、正月休みというものはない。いや、一応休暇はあるが、ゆっくりできないし、「あけましておめでとうございます」という挨拶はない。その代わり、春休みは一息つかせてもらうことになる。てれっと休みが続く。
 
2023年は、その週が「受難週」だった。殆ど家でごろごろしている毎日なので、教会が連日中継をしてくださったのは、とても嬉しかった。殊に本日は、午後3時に合わせてのひとときが与えられ、感無量である。
 
教会暦でのことだが、今日は「受難日」。キリストの十字架は、年中意識から消えることはないが、やはりゆっくり朗読されるのを聞くと、深呼吸の中に何かが入ってくるような深くて重いものを感じる。
 
呪われたような殺され方をしたイエスを、正に呪うような気持ちで見る人もいるだろう。口ではそれを主などと呼ぶにしても、全くの他人事のようにしか捉えていない人もいるはずだ。だが私は、自分がそれをした、させた、そういうところからしか、近づけないでいる。十字架に頭を垂れたイエスの姿への戦きというものを、隠すわけにはゆかない。
 
「受難日」は例年、仕事をする中で迎えていたので、今回はじっくり落ち着いた中で過ごせる。その割には断食したり長く祈祷したりするわけではないが、もうしばらく、静かな時をもっていよう。教会では、午後3時に合わせてリモート集会を開いてくれた。粋な計らいなどというと、不謹慎であろうか。
 
その後、カール・リヒターの「マタイ受難曲」をウェブサイトで見つけたので聞いてみる。昔けっこうな値段で買ったCDは、なぜだかすっかりダメになってしまった。いまはインターネットで便利になった。ありがたい。「ヨハネ受難曲」もあるようだ。どちらも、カール・リヒターの音源がある。いま繙くと、54歳で亡くなったという。若かったという記憶はあったが、これほどとは。昔から好きだった。
 
ドイツ語も邦訳も画面に出る。至れり尽くせりである。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります