受難週の祈り

2023年4月5日

十字架を巡って葉、様々に思うことがある。深く感ずるところがない、というのは、キリスト者としてありえないことであろう。
 
年がら年中、十字架のメッセージでもよいくらいだ。だが、福音はそればかり口にしていてよいわけがない。パウロはどちらかというと、そこに焦点を当てていたのであろうが、それはパウロが、イエスの地上生涯とその旅、宣教などについて、直に知るところがなかったことにも関係すると想像される。
 
だが、イエスの弟子たち、特にここで使徒と呼ばれる何人かにとっては、そうではなかった。1年間だか3年間だか分からないが、比較的短い宣教の旅の中で、共に過ごした師としてのイエスについて、たくさんのことを知ることになったはずである。そしてその十字架の死については、やがて予告があったと福音書に記録されているが、弟子たちがその意味を知るのは、イエスが引き渡されて、悲惨な死を経たさらに後のことであった。
 
イエスのそばで過ごしたこの使徒たちや弟子たちは、イエスの十字架と復活の後、しばし黙想を重ねたことだろう。いったいイエスとはどういうお方だったのだろうか。イエスが教えてくれたことの意味は何だったのだろうか。沈思黙考の末、神から与えられた聖霊の働きによって、いわば目が覚めたのであった。すべてが一筋の光の中で照らされ、つながって理解されていった。こうして、イエスの理解ができ、それを伝えることができるようになったと思われる。
 
十字架は、弟子たちにとり、自分の汚点でもあった。なにしろ主を見捨てて逃げたのである。できるなら触れたくもないような出来事であった。イエスが殺されたことそのものから、目を背けたいと思っても無理はない。しかし、その死と復活に、救いの核心があったとなると、また別である。これが救いだ、永遠の命のための信仰だ、と気づかされたのだ。
 
しかし、改めて、イエスと暮らした日々の意義が、自らに問われたのだ、と思われる。それは、十字架と復活とは、別の次元のことなのだろうか。否、イエスの旅や宣教における言動のすべてが、たとえ表向きには癒やしや宣教であっただけだとしても、その背後に、底流に、十字架が潜んでいたのである。そのことに気づき、目覚めたのである。
 
こうして、私たちもまた、聖書の読み方に深みが加わることになる。思えば説教なるものは、そのようにして、背後に常に十字架を宿しつつ語られて然るべきものである。それはまた、福音書や書簡などを記した者当人が、心の内に十字架をつねに掲げ、痛感していることによる、とも言えるだろう。生きているのは私ではない、というあのパウロの叫びは、聖書を語る者が常にそれに響かせているという事態を根柢にしながら、あらゆる福音を語る現象となっているに違いない。十字架に死んだ自分をベースにして、初めて福音が語れるのであるし、そこからのみ、命の言葉が語られるのである。命を与える説教というものは、そのようにして生まれている。
 
ガリラヤの風に吹かれる中で、十字架を遠くに思っている。人を癒やしつつ、この人が十字架の救いに与るようにと願っている。弟子に教え、時に然りつつ、十字架の真実をやがて分かってくれるようになれよ、と祈っている。主イエスの生涯の一時ひとときは、そのような心の内に彩られていたのではないか、と私は想像する。
 
イエスのすべての言動が、十字架を基盤に置いていたように、私たちの祈りも、発する言葉も、そのようなものでありたい。
 
十字架を深く思う。その痛み、残酷さについて、私たちはどれほど知っているというのだろう。十字架どころか、あの鞭の痛さについてさえ、私たちはあまりにもふだん気にしていない。肉に食い込むあの鞭を受けたため、主イエスはもはや杭を背負って歩き通すことすらできなかったのである。悪口を浴び、蔑まされ、裸にされて晒されて、恥辱の限りを受け、精神的にはもはや「心が折れる」どころではない目に遭った。その上で、釘打たれ、窒息寸前のままに放置されていた。自分の体重のためにその苦しみが及び、長く続く。
 
十字架だけか? 復活のことは思わないのか? そのように問われるかもしれない。だが、復活ということについては、私が決めることはできない領分にある。イエスにしても、神に蘇らされたのであり、起こされたという言い方を基本的にするばかりであった。まして私たち人間が、自分の力で復活するような錯覚に陥ってはならない。神が復活を起こすのである。だから、私たちは復活を希望することはできるが、復活は根本的に、与えられるところのものなのである。
 
十字架は、自分で担うこともある。自分の懐く信仰に関わることができる。福音書の十字架の記事のひとつに、この受難週の今日、目が開かれますように。私自身の中から生まれる知恵によってではなく、上から注がれる光に照らされて、見るべきものが見えることができますように。否、それ以前に、私が眠りこけないで、目を覚ましていることができるように、そこからまず入らなければならなかったと言えるだろう。
 
自分を根拠しては、何も始まらない。何も生まれない。ひとを生かす力など、そこにはない。光であり、命である神からこそ、力がここに及び、救いがもたらされるのだ。
 
かくありますように、と祈る。



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