説教のような番組テキスト

2023年4月3日

本日3日から放送開始。時折ご紹介している、Eテレの番組「100分de名著」は、私たちを、読み応えのある本へと誘うよい入門となっていると思う。4月は「新約聖書 福音書」であるということから期待していたし、そういう時にはテキストを求めるようにしているので、早速読んでみた。番組はほんのひとかけらのことしか見せないから、講師の考えとその書物についての情報は、テキストからテレビ画面の何倍ももたらしてくれるのでお薦めしたい。
 
講師は若松英輔氏。この番組ではおなじみである。これまでもいくつも担当し、好評だったのだろう、こうして聖書の福音書という核心の紹介に抜擢された。カトリックの信徒であり、批評家・随筆家として紹介されている。穏健な姿勢が好印象を与えるが、ひとの心の深くにある「悲しみ」という池に私たちを導き、あるいはそこに潜らせてくれるように、私には感じられる。
 
直接的な神学者でもないし、聖職者であるわけでもない。それが聖書そのものを説き明かすとなると、一般読者の中には、少し価値を低く置く人がいるかもしれない。私も、その点では、聖書についての知識を殊更に増やすような内容ではないかもしれない、と多大な期待を以てテキストを開いたわけではなかった。
 
だが、それは良い意味で裏切られた。たくさんの声を聴くことができたように思うのだ。
 
聖書の言葉を、かなり思い切った角度から読み解くとする。それは、ありきたりの聖書解説にはないものである。そうなると、聖書を、独特の偏った読み方で受け取ることとなるリスクが伴うと言える。異端と呼ばれるグループは、えてしてそのように、極端な思想へと暴走していったものであるだろう。だから、個人の読み方はいろいろあるだろうが、聖書の言葉を、このように読むべしと強調するものには、気をつけた方がよい。私自身、そのように口にしていることは棚に上げるけれども。
 
そうした意味では、本書は、思い切った角度から斬り込んでいる点が見られると言える。だが、私は感じる。それは、決して偏ったものではないし、危険なものでもない。むしろ、誰もが聖書に相対するときに、そのように向かわなければならない、とさえ言わなければならないのではないか、と思うのである。
 
その解釈の妙については、直に番組か、テキストで体験して戴きたい。私は少しばかり、私の心に共鳴するところを取り上げようと思う。
 
イエスをあまり遠くの存在にしてはいけません。イエスの生涯を通じて私たちの人生観そのものを見直すことが重要だと思うのです。(17頁)――自分を問うという姿勢を届けない説教は無意味である。その当たり前のことにつながる聖書の読み方を教えてくれる。
 
罪とは……自分の力だけで生きられると思い込んでいる状態のことです。そうした……傲慢な人間たちのためにこそ自分はやってきたのだと、イエスは言っているわけです……憐れみとは、……自分以外の人と心を同じくすることです。誰かの痛みを自分の痛みとして感じようとすることです。……「罪人」のありようすべてを包み込み、変容させるためにイエスは現れたといっているのです。(29-30頁)――単純に定義をすることは禁物だが、ひとつの視点を提供してくれるのは確か。思えば、礼拝説教は、このようにひとつ斬り込む点をもつことが肝要であった。だから本書は、案外説教のエッセンスを有していると言えるのかもしれない。
 
「柔和な人は幸いである」。柔和な人とは、「頑なではない人」ということです。頑なとは「自分が正しい」と信じて疑わないということです。それは自分の価値観が絶対的なものだと思い込むことだといえるかもしれません。(33頁)――この対比が適切であるかどうかは分からないが、「頑な」をこのように切り出してくれると、そうした者がうようよいるということが改めて実感される。
 
奇跡を、絶対に起こり得ないこと、と感じるのは、それを文字として、言葉としてだけ読んでいるからかもしれません。その奥にあるコトバ(注・筆者はこの章の冒頭で、「言葉」と「コトバ」を区別して定義している。後者は、「非言語的な意味の顕われ」を指す)をともに読むとき、その奇跡の物語が何を象徴しているのかが見えてくる。(53頁)――奇跡の解釈は簡単にはできない。ここにも筆者のひとつの主張が見られる点で、説教的であるとも言えよう。だが、文字や言葉としてのみ捉えがちな、頭でっかちな神学者に魂があるならば、響いてほしいメッセージではある。
 
イエスに取って「祈る」とは目覚めている状態にほかならない。……祈りを定義することは簡単ではないのですが、目を閉じ、目覚めていることであるともいえるように思います。……「目覚めている」とは、自分以外の悲しみや苦しみに向かって開かれているということだともいえそうです(66-67頁)――ゲッセマネの祈りに関するコメントであるが、ここについては次に記す。
 
筆者には、他にも多くの著作があるが、「悲しみ」が伴うテーマや理解が多い。それは、筆者自身の体験の中の「悲しみ」が関わっているであろうことは想像に難くない。そしてその悲しみへの共鳴があってこそ、愛についての感覚があり、また、イエスの慈しみについての感動というものがあるのではないかと思われる。この点は、多くの言明の底流にあるように、私には思われてならないのである。
 
ユダひとりを悪者にし、自分はユダのようにはならないようにしようという思いをすら生んできたように思います。しかし、そうした態度はやはり、自分がいちばん「偉く」なろうとすることと同じではないでしょうか。(96頁)――ユダは滅んだのか否か、そうした傍観的な議論を吹き散らす視点が、そこにある。筆者は、ユダを「友よ」と呼んだイエスの心を抱きしめる。そこから「ゆるし」というもののエッセンスに、私たちの目を向けさせてゆくのである。
 
筆者は「はじめに」で述べている。「あなた自身の苦しみや悲しみ、嘆きといったさまざまな経験をよき導き手として、それぞれの「イエス」と出会ってみてほしいのです」。私は、その故にこそ、本書の一つひとつの章が、人を生かすコトバとなって伝わっていくことができるのだ、と思っている。ぜひ噛みしめたいものである。



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