立ち上がるところに

2023年4月2日

受難週に入るのだが、選ばれた聖書箇所は、エゼキエル書と、マルコによる福音書の、バルティマイの記事の箇所。意外なペリコーペであった。確かにエルサレム入城の直前の出来事ではある。そしてそこに、説教者の狙いの一つがあったと思われる。
 
所はエリコ。エルサレムまで半日ほどの距離である。古くはヨシュアによるカナン侵略の発端となった地であり、ルカによるとザアカイとの出会いが思い起こされる。マルコによると、そこにいたのは盲人のバルティマイ。「ティマイの子で、バルティマイ」という、同語反復のような紹介がぎこちない。
 
盲人は、イエスが来たという声を聞いて、ときめく。一世一代の思いをこめて、イエスの名を叫び、「私を憐れんでください」と叫び続ける。誰が黙らせようとしても、その必死の叫びは止められない。もっともっと、叫ぶ。この熱意には、こちらまで心が熱くなる。
 
イエスは、その声を聞いた。立ち止まり、その男を呼んで連れてくるように人々に言う。人々は「お呼びだ」と男に声をかけて、連れてくる。 ギリシア語の動詞には、主語が誰であるかを含む形をとるため、それは「あの人が」というような響きを隠し持っている。私たちもまた、あの方が、イエス・キリストが、自分を呼んでいるという意識をもつものでなければならない。
 
さて、この調子で説教を辿るといったい何日綴っていればよいのか分からないので、いつものように端折りながら、私中心に語ることにする。お読みになる方は、脈絡が分からないだろうと思うが、お許し願いたい。
 
このバルティマイが、教会には実はよく知られた人物であったのではないか、と説教者は楽しそうに語る。否、これは「学者」の説明であるというように言うが、それは「楽しい想像」であるのだという。こうした言い方があったものだ。わざわざ名を記されている点も、それを裏付け得るものである。このバルティマイは、教会でイエスに出会ったときのことを「証し」していたに違いない、と想像するのである。
 
ここで最相葉月さんの『証し』の話が持ち出された。これを説教者も「楽しく」読んで要るとのこと。安心した。これは説教者や牧会者の必読書であると私は確信する。最近のある取材によると、この本のあとがきを見て読むのを止めたとか、同じ教派の人のところだけ選び読んで終わる人がいることを、著者は残念がっている。もったいないことだ。神がいかに一人ひとりを生かしているか、そのカタログのようなものを見過ごすことは、キリストのからだとしての教会の生きる力を減じてしまうに違いない。
 
さて、ふつうこの箇所で強調されるのは、「何をしてほしいのか」というイエスの問いである場合が多い。「先生、また見えるようになることです」というバルティマイの返答には「また」が入る。かつて晴眼者であったかのような言い回しである。また、自分が求めていることをはっきり口に出すことは重要である。さらに、盲人だからこそ物乞いとしての生活手段が成立しているところを、見えるようになってしまうと、新たな生業を取得していかねばならない苦労が伴うはずである。見えるようになることが、単純に好ましいかどうかは分からない一面があってもおかしくはない。こうした点を追及することは、当然どんな説教をするにも考えるはずである。
 
しかし、この説教者が注目したのは、そこではなかった。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」ですらなかった。それどころか、直接ここに描写されていない事柄についてであった。それは、この盲人が「立ち上がる」ことであった。イエスは、彼に自分で立つことを求めたのだ。
 
「立ち上がる」というのは、聖書ではしばしば「行動を起こすこと」を意味する。そもそも突如見えるようになった、というのも不思議ではあるが、マルコはそれを殊更に強調することはない。如何にもイエスには自然極まりないことであるかのように、バルティマイが見えるようになったことをあっさりと記す。しかしそれは、見えたことがクライマックスなのではなかったからであった。
 
イエスがその目を開いたという記事はどこにもない。しかし、イエスはまるでバルティマイに向けて、霊的に立ち上がらせるだけの問いかけをしているように思われる。おまえは私に向かってあんなに叫んでいたではないか。おまえは、自ら憐れみを乞うことで、いつの間にか立ち上がっていたのではないのか。それは、紛れもなくおまえの「信仰」だったのではないのか。そのために私は、おまえの声に立ち止まったのだ。立ち止まったイエスを前にして、ひとは立ち上がることができるようになるのだ。「信仰」さえあるのならば。
 
バルティマイは、「なお道を進まれるイエスに従った」のだという。それは行動を起こしたことにほかならない。しかしまた、それこそが人間の自由というものの本質を意味するものとなるめのであった。周りの声に溶けこむことで、自己主張しているつもりで、実はたんに揺らぎ、流され、利用されるだけの群衆のひとりでしかないようなことが、世の中でなんと多いことか。
 
この直後、イエスはエルサレムに入城する。群衆は熱狂的な歓迎の意志を示す。イスラエルを救うメシアが現れた、ローマの圧政から解放する王を熱烈に迎える群衆であった。だが、その舌の根の乾かぬうちに、いざイエスが当局に捕まると、この群衆は祭司長たちの煽動に乗って、イエスを「十字架につけろ!」と連呼するようになるのである。いったい、それのどこに自由があるというのだろうか。
 
いったい、それのどこに、新たな人生や霊の力を受けた人間の信仰があるというのだろうか。それは、罪の中に座り込んでいることではないのか。イエスに従うこととは正反対のことではないのか。
 
この言い方は、自分はクリスチャンである、と思い込んでいる「群衆」のために突きつけられている。それを我が事として聞くことのできない耳は、聞く耳をもっているとは言えない者の、背信の魂であるかもしれない。イエスは、しばしとどまっている。その愛の中に、私たちはとどまらなければならない。だが、それは座り込むこととは異なる。イエスは私たちに、立ち上がることを求めておられる。イエスに従うことを、求めておられるのである。
 
つまらない授業に慣れた学生は、授業というものはそういうもの、と思い込まされることがある。生きた熱意ある授業が世の中にあることを知らないからである。そして生きた授業を受ける学生が、学問においてその面白さを堪能し、ますます熱意をもって探究を続けていくのに対して、つまらない授業を当たり前だと思い込んだ者たちは、学問においても学力においても、死んだようなものになっていく。
 
熱意ある説教が、ここにある。命を与える言葉が、ここにある。本物を知らずに、偽物をありがたがっているようなあり方は、やがてイエスを十字架へ追い込むあの群衆のようになっていく可能性がある。あのときにも、事実そうした者が、そのようになっていったのである。
 
受難週を迎えるにあたり、私たちはまことに「福音」と「愛」の中にとどまらなければならない。そして、そこに足場を確実に与えられたうえで、立ち上がらなければならないであろう。そこに、自由がある。そこに、命がある。



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