説教の違いと救い

2023年3月28日

この2月に、礼拝のレスポンスとして「要石なるキリスト」のことを綴った。そのときの説教は、「家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった」は、ルカによる福音書と、その根拠となる詩編とが引かれていた。そのとき、「隅の親石」に関して私が聴いたことから、次のように記していた。
 
★エルサレムのような中東の町は、城壁で囲んで身を守ることが多いであろう。内外の出入りのためには門が必要であり、厳重に管理されている。その通路は、上側がアーチ型になっている。トムとジェリーでジェリーの巣穴への通路をイメージすると形がお分かりだろうと思う。その内側を、つまりアーチ状に石が組まれているが、両側からせせり立ったように組まれたものが、中央上部の石により、互いの力がぶつかり、支えられるようになっている。その中央の石が、要石であり、親石なのである。★
 
説教者が直接このような言い方をしたわけではない。ただ、捨てられた石が、それなしでは建物が成り立たなくなるような石となるのだ、ということはそこで強調されていた。もちろん、この要石はキリストにほかならない。そこは押さえておかなければならない。
 
それにしても、キリストの業は不思議である。捨てられたものが最も要にくるものだとは。「隅の親石」と呼ばれているものは、このような上方に見られるものなのであって、礎石ではない、ということを説教者は強調していた。そうでなければ、「その石が落ちて来た者は、押し潰される」(20:18)と言うことはできないであろう、と言うのである。
 
ところが翌月、ある教会で、同じ「隅の親石」について話す人がいた。公表された原稿しか知らないが、「隅の親石とは、家の四隅に据えられた石」であるのだという。それは信仰の基礎であり、隅の親石が十字架の出来事である、と結ぶのだった。
 
この人は問題のある人で、救いについて講壇から語ることがない。教会組織には関心があるが、人の救いについては何のビジョンも配慮ももっていない。えらく優秀な経歴を提示するが、ギリシア語の基本もご存じないような場面を晒してしまったことがある。講壇からは、聖書について、どこにでも書いてあるようなことを連ねた作文を毎回読み上げるばかりである。
 
私は、どちらの解釈が文化的歴史的に正しいかどうか、それを決めようとしているのではない。聖書の原語はどちらの意味で読むとよいのか、を議論しているのではない。ただ前者からは、どんなにこの聖書から人の救いにつながるメッセージを読み取ろうかと尽力していることは、よく伝わってくるだろうと思う。また、それは説教者自身が、聖書の言葉に救われて神の前に出て行く日々を送っているからであろうことは、容易に想像がつく。
 
説教に磨きをかけるために切磋琢磨して、どうしたら命の言葉を自分が聞くことができるか、どうしたらそれが人に伝わるように語ることができるか、それを説教の課題にしているような人の許でサブを務めている説教者である。この説教においても、だから、一人ひとりが教会にとり、なくてはならない存在なのだ、ということへと説教は傾いてゆく。教会に属する一人ひとりが、なくてはならない大切な一人ひとりなのだ、と訴える声は、実に熱かった。その思いから、本来「隅の親石」はキリスト以外ありえないかもしれないのに、一人ひとりがなくてはならない、という叫びとなった。教会の中で自分はどういう存在なのか、何の奉仕もできないし、迷惑をかけているかもしれない、と肩身の狭い信徒にとって、あなたはなくてはならない一人だ、というイメージを豊かに伝えるこのアーチの石の組み方の話は、きっと勇気づけるものとなったであろう。つまりは、これもまたひとつの救いを与えるメッセージとなったに違いないと私は思う。
 
だから、この聖書箇所を黙想しているときに、「その石が落ちて来た者は」という言葉をきちんと伝えなければならず、支え合う石の力と、その要にあるキリストというイメージを、豊かに説教壇から語ったと思われるのである。そうしてそれを取り出すことで、聴く者をハッとさせたのである。
 
それは、もしかすると聖書の読み方としては論を少しずらしているように見えるかもしれない。「隅の親石」なるイエスが要であるのに、その横に並んでいる私たち一人ひとりも、かけがえのない存在なのだ、とするためには、イエスに沿い並ぶ他の石もその建物のために必要だ、ということをきちんと述べていなければならないが、何気なく聞いていると、教会に属する一人ひとりが「隅の親石」であるかのように語っていると勘違いされる可能性があったからである。しかし、自分がどんなにイエスに出会って救われたかを知るからこそ滲み出てくる確信というものは、隠せない。そこには人々の救いのために語るという熱意があったし、それが真実そのものであることは疑う余地がなかった。
 
しかし後者の場合は、教案誌やよくある解説書の焼き直し程度でしかなく、教会学校で教えるにはよい場合があるかもしれないが、礼拝説教でそのくらいのことを説明して何になるのか、というような内容に終わっている。このキリストが信仰の基礎です、と原稿を棒読みしたとて、いったい誰を救うことになるのだろうか。捨てられた石がキリストです、と説明したところで、何を伝えたことになるのだろうか。会衆も、「うんうん、知っているよ、そうだよね」以上の何をそこから受けるのだろう。こうした情況では、「その石が落ちて来た」に疑問をもつこともなく、上辺だけなぞる読み方しかしていない、と言われても仕方がないであろう。
 
繰り返すが、聖書の意味はどちらが正しいか、を言おうとしているのではない。礼拝説教は、聖書研究の発表会ではない。神と会衆との応答の場である。その意味でも、説教者が何をどのように語るかということについて、月とすっぽんであることが、象徴的に表されている対比であった、と言っているのである。
 
2月の、かの説教者の説明に対して、私はそれを聴きながら、次のようなことを頭に思い浮かべていた。それも、先月に記していたが、引用しておこうと思う。私のイメージである。神へのこうしたレスポンスが生まれるところに、命の言葉が語られた意味がある、とも言えるだろう。
 
★もちろん、この親石というのが、イエスのことであるわけだが、私は、それを聞いて、ふと思った。この親石は、両側から延びたものを、どちらをも支える役割を果たしている。反発し合う力がこの石の存在によって、釣り合い保たれることとなる。人の世は、反対意見というものがある。反対勢力があり、啀み合い、争い合い、殺し合うことがある。だが、その間にイエスが挟まることによって、互いに相手を壊すことなく、従って全体が壊れることなく、安定が保たれる。いわば平和が保たれるということではないのだろうか、と。★



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