洗礼と命

2023年3月20日

私はかつて60分以上の礼拝説教が当然だった環境にいたこともあるので、50分ほどの説教をさほど長いとは思わないが、その説教者の最近の説教の中では、長かったものだと思われる。従って、その全部をご紹介することはできないし、またする必要もないだろう。あくまでも、これは私のレスポンスなのだから、特に、いくつかの点だけに触れていけばよいだろうと思う。
 
マルコによる福音書の10章、ゼベダイの子ヤコブとヨハネがイエスに、いわば抜け駆けの「お願い」をする場面に浸ろう。ともすれば、この二人の厚かましさを批判する口調の説き明かしが多いのだが、説教者の眼差しはそうではなかった。というのは、イエスが二人を叱責していないからである。こうした視点は、たんにこちら側の解釈次第というものではなく、聖書に基づいた気づきを、もたらすものであって、教えられるところが多い。
 
また、「栄光をお受けになるとき」という言い方は、イエスの「復活」の予告などを心に留めていたからこそ、出てくるフレーズかもしれない、とも指摘する。二人が、右大臣左大臣という権力を求めているというように、私たちはどうしても僻んで見てしまうのであるが、冷静に読むと、イエスの勝利の祝宴を前提としての話だと理解できる。それが、イエスのもたらす真の姿とは違うイメージでしか彼らには捉えられていなかったかもしれないにしても、それでも、イエスの語る国の実現を信じているからこそ、「お願い」できることに違いないのだ。イエスのいちばん近くにいたい、というその望みは、イエスを愛しているが故の「お願い」であるのかもしれない。
 
しかし、イエスは二人の求めるものを、それでよしとはしていない。自分が受ける洗礼を受けることができるか、と問い返す。バプテスト教会のような浸礼とは異なる、いわゆる滴礼を授ける教会であったので、浸礼が羨ましい、一度牧師としてしてみたい、という件には思わず笑ってしまった。
 
その洗礼とは、すなわち「死」を意味する、という説明がなされた。これは大切な点である。この「洗礼」という語が表す意味合いの中に、はっきり言えば「溺死」というものが隠れていることは、近年有名になっている。儀式だどうだという人がいることだろうが、その儀式によってとは限らない。イエスを信じるということは、それまでの自分に死ぬことである。さらに言えば、あのイエスの十字架と共に、自分も磔にされて死んだというところで、「新生」が始まるのである。確かにこの肉体は、イエスのような血を流していないし、苦痛に喘いだわけではない。そこは、イエスが身代わりになったのである。そうして、私の罪状書きが、私の肉体の代わりに、十字架の上に釘付けにされ、無効宣告をされるに至ったことになる。
 
説教では、とくに伝道者として生きることが、このイエスの苦痛に、それなりにではあるが接近することであることが強調された。確かにその傾向はあるだろうと思う。だが、いわゆる献身者として牧会を職とする人だけがそうであるはずがない。イエスの弟子として、誰もが献身しているのであり、イエスの苦悩に与るのである。まさにそこにこそ、「万人祭司」のエッセンスがあるに違いない。キリスト者は、その自覚をもつことが赦される、そういう罪人の代表なのである。
 
この後、説教はクライマックスに入っていく。かの二人は、イエスに怒鳴られるようなことはなかったが、かといって、それでよいと認められたわけでもなかった。教会でのモットーでもある「仕える者」として生きることへと促されることになるのだった。つまりは、「汝は我に従え」ということだけが最後に遺るのであって、「イエスに従う」という課題が、イエスの弟子には課せられていることを改めて認識するのであった。
 
ところが、「イエスに従う」ためには、「捨てる」ことが必要だった。事実この直前にも、永遠の命を求める金持ちが悩みつつ立ち去るという事件があった。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」という有名な言葉が発されるのはこの場面である。そしてペトロは、自分たちは「何もかも捨てて、あなたに従って」きたと胸を張る。イエスは、財産や家族を捨てることの報いを、このとき語っていた。
 
キリスト教を信じるときには、大きな決断が要る。この「捨てる」イメージがつきまとうからだ。文字通り捨てることが、カトリックの修道院のようなところであるとも言えるが、そこへの一歩は、地に裂けた割れ目のように、怖く、渡るのに決断の要るものである。まさに洗礼への決心がなかなかつかないという事態の背景である。これは私にもよく分かる。もう戻れない橋を渡るわけである。そして、「捨てる」とは自分の願いや望みも全部差し出すことなのか、というところにまで連れて行かれるものである。否、一度は連れて行かれたほうがいい。それを経験しなければならないと私は思う。
 
だが、説教者は新しい視点を、言葉で提供する。「自分を捨てる? そう、それまでの古い自分を捨てるのです」と。これならば、ことさらに預金通帳を教会に差し出すようなことではなく、すでに信じた時点でやったことである。「救い」とは、そういうことではないか。
 
そのとき、古い自分に死に、新しい命に生かされる。新しい命とは、イエスの命である。キリストが、私の内で生きておられる、という実感である。このイエスは、結局「多くの人の身代金として自分の命を献げる」ことになった。献げたその命が、復活して永遠のものとなるのだが、その命が生きて息をするひとつの場所が、イエスを信ずる私たち一人ひとりの体である。体というのは、魂や命などと一体となった総合的な人格全部を言う。私という場は、この世界にいまここで私だけが占めるものである。その私という場に、イエスの命が生きている。神が存在しない、と思い込む人は、この体験をしていないだけの話ではないのか。主は生きておられる。これを告白する者がいるのならば、確かに主は生きておられるのである。イエスの命が、ここにある。
 
説教者は、このことを「命の値段」という表現で、表そうとしていた。それで十分表せるものではないだろうと思うが、確かにそれで、聴く者は自覚しやすくなるだろう。イエスの命が確かにいまここにあるのだ、と我が胸を抱きしめてよいはずだ。神を礼拝するとは、その命が確かに生きているのだという確認をすることでもあるだろう。そして、同じ命に生かされている者同士、「そうだよね」「確かにね」と通じ合い、認め合うのが、教会という、見えないが生きていてつながりが保たれている場なのである。
 
ここでは「命」という言葉を繰り返し用いたが、それは「信」であってもよいし、「愛」と表現しても構わないだろうと私は思う。どれも、イエスの代名詞であるからだ。主イエスは、生きておられる。ここに、いまも。



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