3月20日

2023年3月20日

同じ日付だからと言って、思い出さねばならない決まりはないし、「同じ」という感覚も極めて人為的なものでしかないのだが、カレンダーが巡ってくるたびに、その同じ日付の出来事を思い返すのは、仕方がない性なのかもしれない。
 
福岡で大きな揺れを体験した、あの地震。そして、地下鉄サリン事件。
 
前者は、2005年のこの日付の日に起きた。日曜日だった。しかも朝の礼拝の時間だった。ちょうど、「こども説教」というタイムで、こども向けに教会員が交替で短い説教をするブログラムの最中だった。その日はイースターを控える、いわゆる受難節の礼拝であったが、こども説教は十字架と復活までをとりいれた内容だった。担当者は紙芝居をつくり、復活の場面で、「墓をふさいでいた大きな石が、地震で動き……」と話していたところ、会堂が揺れたのだった。
 
それは、福岡西方沖地震と称された。マグニチュードは7.0とされているから、福岡では経験のない揺れだった。幸い、被害はなかった。会堂後方にあったスチール棚が、上下分離式だったので、上部が少しずれたくらいであった。しかし特に福岡各地で、被害が出た。自宅マンションの、私の場所からは反対側の1階のタイルが何枚か剥がれたほか、観音開きの食器棚の家庭では皿が割れるなどの被害が出ていた。私たちは、阪神淡路大震災の教訓から、大きな家具は突っ張り固定し、食器棚も考慮していたので、無事だった。また、タイルの件では、それだけで我が家に地震保険が下りた。これも阪神淡路大震災の教訓で、当時福岡でそんな保険に入っている人は稀だったはずである。子どもの机をどう捻出しようかと頭を抱えていた時だったので、実にありがたかった。このことは、以前にもお話ししたことがあったので、ご記憶の方もいらっしゃるだろうと思う。
 
その地震の10年前の、やはり朝だった。地下鉄サリン事件については、いまもなお被害を受け苦しんでいる方々がいらっしゃるので、軽率なことは口にすべきではないと考えている。言語道断の事件であることは言うまでもないが、人間が物事を信じるということの内に、如何に危険なものが潜みうるかということを思わされる。それは他人事ではない。
 
つまり、信仰という言葉を隠れ蓑にして、人間はどんな残酷なことでもできるということである。しかも、それを正義の名において行う。それを弁えるために、私たちは歴史を学ぶ。人間の本質などを思索することによっても、もちろん捉えることは可能であろうが、殆どの人は、歴史からそれを学ぶことになるであろう。
 
キリスト教の歴史もまた、その中の重要な一角を占めている。現代世界が、大きくキリスト教の文化をもつ勢力や文化の支配下にあると言えるからだ。甚だしくは、最初期の伝道活動あたりから、キリスト教にそれがあったと見ることも可能であろうし、もしかするとその信仰の本質にもその要素があったのかもしれない。
 
人が神になろうとする欲望めいたものは旧約聖書の最初から濃密に描かれている。人を殺すということ自体が、正にそれではないのか。私は常々そのように感じている。
 
地下鉄サリン事件を起こしたのは、オウム真理教であった。最近、統一協会が知られるようになり、その煽りでだかどうだか、オウム真理教の続きの団体について、法的な事柄に関わる報道があったばかりである。エホバの証人に対しても、法的な問題が指摘され始めた。幸福の科学も、教祖の不審死に対して、間もなく教団から説明があると発言があったにも拘わらず、発表する気がないかのようにすら見える。どれだけ他人や社会を利用して、犠牲にして、自分を正当化しようとするのか、いずれの宗教団体にも、人間の陥りやすい罠が潜んでいるように感じられる。もちろん、自ら「正統」をなのるキリスト教団体も、例外ではない。
 
そう。そのような危険性があることについては、伝統的宗教においても、同じであると私は理解している。もちろん、私もその中の一人である。自分を信じることができないのは、当然のことなのである。
 
だが、子どもに対して信仰を強要してはならない、という文言が一人歩きすることには、警戒しなければならない。国家単位で信仰を強要してきた歴史をもつこの国は、あらゆる教育や家庭の問題を、破壊することになるかもしれないような、極端な「正義論」を以て、また何か別の「信仰」を強要することにもなりかねない動きを自らしようとしていることに、やはり気づきもしないのである。私たちは、気づかない。気づこうともしないし、気づこうとしても気づかないことが多い。
 
自分で自分に正義を着せてはならない。
 
なお、聖書では、「正義」と訳されている語に、否定的な意味をもたせるものは殆どない。唯一例外のように目に映るのは、コヘレト書の次の箇所のみであるように見受けられる。否、これも「正義」の語そのものは歪んでいない。人間の側の自称「正義」は、聖書を読むだけでは気づかず、隠されている罪であるのかもしれない。
 
太陽の下、さらに私は見た。
裁きの場には不正があり、
正義の場には悪がある。(コヘレト3:16)



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