【メッセージ】裏切られてもなお

2023年3月19日

(ヨハネ13:21-30, ゼカリヤ14:1-9)

それはただ一日であり、主に知られている。
昼もなければ、夜もない。
夕暮れ時になっても、光がある。(ゼカリヤ14:7)
 
◆裏切り
 
「裏切りは好きだが裏切り者は嫌いだ」と言う言葉を、あるローマ皇帝が遺したと聞きました。シチュエーションがあるのでしょうが、私たちの社会の中でも適用できることがありそうな気がします。この「裏切り」という言葉には、やはり緊張が走ります。そこには、こじれた事情が隠れ、また心理的にどうだったか、興味が湧きます。そして、その「裏切り」の後の憎悪と顛末のほうが、もっと大変なことになっていそうにも思えます。
 
敢えて、その具体的な事例は挙げません。映画でも日常生活でも、いくらでも思い当たることがあるのではないでしょうか。
 
ただ、「裏切り」という言葉を持ち出すからには、その背景に、あるものが前提されているはずだ、ということに私は気づきました。どうして「裏切り」があるのか。「裏切り」を腹立たしく思うのか。それは、「信頼」という前提があるからではないでしょうか。信頼していたのに、それに反することをされたとき、「裏切り」を覚えるのではないでしょうか。そもそも信頼をしていない相手が自分に悪いことをしたとしても、ある意味で当たり前なのです。しかし、こちらは信頼していた、それなのに、酷い仕打ちをされた、こちらの信頼に値しないようなことをしてきた。そこに、「裏切られた」という強い怒りを覚えると思うのです。つまり、当然この言葉には、「信頼を裏切る」という目的語が前提となっていたはずだ、と改めて思わされたのです。
 
私たちの社会と日常は、無数の「信頼」により成り立っています。家族や友人はもちろんですが、店へ行けばちゃんとした物を売ってくれると思うし、すれちがう人間がいきなりナイフを突き立ててくるなどとは誰も考えていないでしょう。電車の後ろの席からいきなり首を絞められるなどとも考えないし、このドアを開けたらいきなり断崖絶壁となっていて落ちてしまう、そんなことは夢にも思わないでしょう。
 
会社で働けば、給料日に賃金がもらえる、ということを信頼することができる社会は健全です。社会状況によっては、それが疑わしいこともあったのです。食堂に入ったときに掲げてあった価格より、食事後に店を出るときは高い値段を要求される、そんな時代もあったのです。
 
イエスが弟子たちと旅をしています。いったいどんな生活をしていたのか、私は興味深く思います。地理も時代も異なる世界の文化や習慣は、どうにも分かりません。旅は安全だったのでしょうか。治安が気になります。人々との関係は信頼あるものだったのでしょうか。イエスと弟子たちとの関係も、強い信頼があってこそのものではあったのでしょうが、その辺りの空気というものは、私の心の中では確定できません。
 
そこで、今日お開きした、いわゆる「ユダの裏切り」というものが、どういう信頼を前提にしていたのか、よく分からない、ということです。
 
◆サタンが入った
 
イエスが、弟子たちの足を洗いました。そこからだけでも深い話ができるかと思いますが、今日はそこに入っていかないことにします。ご容赦ください。その出来事の終わりに、共に食事の席に着く者の内から、逆らう者が出てくるという聖書の預言を取り上げていました。これが、この後のユダの裏切りを予告するものとなっています。
 
そしてイエスは「断言」します。「アーメン」という強い言葉と共に、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」(21)と明言するのです。弟子たちはびっくりします。それは誰のことか。互いに顔を見合わせます。
 
ペトロは、イエスのすぐ横にいた弟子に、サインを送ります。弟子たちの筆頭のペトロといえども、その内容についてイエスに直接訊けない雰囲気があったのです。イエスの横にいた弟子は、「イエスの愛しておられた者」(23)と称されていますが、これがヨハネによる福音書には何度か登場し、それこそ筆者ヨハネのことではないか、と詮索されますが、確かなことは分かりません。ある意味で、謎の弟子なのです。  
13:25 その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、
13:26 イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。
 
パンは、酢の入った調味料に浸して食べるものだったように聞いています。私たちの感覚でいえばドレッシングやマヨネーズみたいなものでしょうか。旧約聖書のルツ記2章に、ボアズがルツに、同じように食べることを勧めている場面がありますから、機会があればお開き戴ければよいかと思います。イエスがユダに差し向けたのは、もしかすると、イエスが一旦口にしたパンであったのかもしれません。
 
イエスは旅の中で、自分は「命のパン」だという話をしたことがありました。かなり詳しく話しています。自分を食えというようなその勢いに、人々がイエスから離れて行ったという様子が窺えます。イエスはユダに対して、自分の体を放り向けたということなのかもしれません。
 
27:ユダがパン切れを受けるやいなや、サタンが彼の中に入った。
 
サタンが入った。ただならぬ出来事です。これは、恰もイエスが、ユダにサタンが入るように仕向けたというように見ることもできるように感じます。しかしまさか、そんなことはあるまい、とも思います。筆者ヨハネがユダの行動について、解説めいたものをしているだけなのかもしれません。皆さまはどう思いますか。
 
サタンたるもの、いわゆる「悪魔」と考えてよいのでしょうが、いわゆる真っ黒で角があり、尖った尻尾があるような戯画がありますが、それで描けたつもりになってはいけないでしょう。芥川龍之介に『悪魔』という作品がありますが、様々な姿をした悪魔を描写しています。普通、人にはそれと見えない形で悪魔の力が及ぶことを背景としながらも、その伴天連には、特別にその姿が見えた、という設定で物語が始まるのでした。私は『煙草と悪魔』が好きです。悪魔が負けたようなストーリーですが、さて、本当に負けたのかどうか、という件は、見事な風刺が活きているように思います。どちらにしても、人間の心や社会の中に潜む悪魔性を臭わせる、パンチの効いた話となっています。これ以上は申し上げません。物語はどうぞ、皆さま自身がお楽しみください。
 
◆ユダ
 
27:ユダがパン切れを受けるやいなや、サタンが彼の中に入った。イエスは、「しようとしていることを、今すぐするがよい」と言われた。
 
サタンが入ったとき、イエスはそれを知ってでしょうが、「しようとしていることを、今すぐするがよい」と告げます。これは重い言葉です。私たちは、日々この言葉を言われていないでしょうか。時に、「神がこうしろと命じている」などと自分に言い訳をして、本当は自己本位な思いだけで、何かをやろうとしている、ということはないでしょうか。「これは神の御心だ」のようなお墨付きを、自分で自分に与えるのです。
 
そんなばかな、とお思いの方は、その言いなりになっているのではないか、と私は推測します。これを他人に向けるのが、組織だったカルト宗教の得意とするところで、それもまた、自分で自分のしていることに気がつかないでいるひとつの姿でありましょう。
 
他方、そうして自制が強く働くとき、今度は、ほんとうに神の導きであるのか、「これは神からのものだろうか」と疑う、あるいは信用できない、といったことにもなりえます。人間には、何が正しくて何が誤っているのか、しょせん完全には分からないのです。どこまでも迷いながら、悩みながら、進む道を選択していくよりほかないのでしょう。
 
28:座に着いていた者は誰も、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。
29:ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた
 
イエスとユダの間で行われているやりとりの意味が、周囲の弟子には分かりません。少なくとも、その現場では分かりませんでした。後にどのようにしてこれが判明していたのか、そのようなことに拘泥する暇があったら、私たちはもっと我が身を顧みておくべきだと私は思います。筆者ヨハネは、後からにしても、これを覚る知恵を与えられたのです。だから、こうして筆記していく福音書において、読者に知らせるのです。その場面の意味を、確かに知らせておくのです。いったい、ユダに何が起こったのか、さもユダに尋ねたかのようにでも、堂々と描くのです。読者よ、知っておけ、と言わんばかりに。
 
30:ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。
 
そう、夜でした。文学では常にそうですが、情景描写は、ただの観察に基づくものではありません。何らかの意味をもたせ、読み進む者のために何らかの導きを与えています。これは夜なのです。私たちは、こうした小さな描写に、もっとじっくりと、ゆっくりと、黙想する必要があります。
 
ユダはこうしてイエスを裏切りました。この裏切りについては、古来福音書に触れる信徒は、深く思い、また様々な想像を巡らせてきました。時に、それは神学的議論にもなります。ユダは滅んだのか。ほんとうに生まれてこなかったほうがよかったのか。これを憎む、素朴な信仰もあってよいのですが、他方、このユダこそ人類の救い貢献したのだ、と見なす人もいます。ユダが裏切ったからこそ、イエスは十字架に架けられたのであり、人類の救いが成立した、そういう見方をするならば、ユダこそ、私たちの救いの立役者である、と理解するのです。
 
学問が、そのどれかを決定することはできません。一意的に決める必要もありません。一人ひとりが、神との関係の中で、受け止めていけばよいものだろう、と私は考えます。たとえば私は私自身の中のユダを見つめると共に、この「ユダ」という名前が、どうしても南ユダ王国と重なって見えてくることがあります。エルサレム神殿を構え、ダビデ以来の王朝の中で神に守られ、やがて子孫のうちにイエスを生み出すこのユダ王国ですが、度々神に背信し、神から離れてきた歴史があります。神がいくら愛しても、異教や偶像に心が動いていったユダ王国は、バビロニア帝国に捕囚され、その後はローマの支配を受け、その後イスラエルの民は、エルサレムに足を踏み入れることさえ許されなくなっていきます。つまり、こうしてユダ王国は、神を裏切り続けてきたわけです。
 
それは、イスラエルが悪い、と言っていることにはなりません。私が、ユダ王国そのものなのだ、という意識を懐くための歴史だと思っています。
 
◆ユダとサタン
 
ユダ王国であれ、イスカリオテのユダであれ、自分こそそのユダであるかもしれない、という思い、それについて私の信仰をいまお聞かせすることは控えます。ただ、それをあなたに問うてみたいと思います。あなたにとり、ユダとは何者なのでしょうか。
 
すると、純朴な信仰をもつ方こそ、心配になることがしばしばあります。そうだ、自分はユダかもしれない、そうびくびくし始めるのです。でも、それは心配に及びません。どうぞその真っ直ぐな信仰で、それを超えていってください。しかしまた、自分がユダであるはずがないではないか、とそんなことを微塵も思わない、という方には、私は厳しいものがあると考えています。信仰による自信がある、と言われるかもしれませんが、自分にはそんなことはない、とするのは、よいことではない、と。
 
自分は詐欺には騙されない、と豪語する人こそ、詐欺をする者からすればカモである、というのはよく言われることです。油断するからかもしれませんし、その心理そのものに、騙される何かが潜んでいるのかもしれません。自分はユダではありえない、と豪語するのも、それと同様です。ここには「サタンが彼の中に入った」(27)と書かれていましたが、サタンは入ってくるのです。その人がどんな意識をもっていようと、その人の中に、サタンというものが、外から入ってくるのです。するりと入ってくるのです。
 
サタンの攻撃は、私たちの意識するところではない可能性があります。このときのユダもまた、自分では何も気づいていないのだろうと思います。自分は正義を行うのだ、自分の怒りは義憤なのだ、そのように私たちも思うことがありますが、ユダもまた、このとき自分の中にサタンが入ってきた、などとは考えていないはずです。
 
ただ、ユダは、してはいけないことへと走りました。「すぐに出て行った」(30)のです。つまり、イエスのいるところから、出て行ってしまったのです。イエスの許を去ったのです。これをしたことで、ユダはサタンの言いなりになったものと思われます。イエスから離れてはいけません。私たちは、イエスのところにとどまっていなければなりません。
 
私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。(ヨハネ15:4)
 
「つながる」と「とどまる」と、この辺りで日本語で訳し分けられていますが、どちらも原語は同じです。イエスにつながることと、イエスにとどまることとは、別のことではありません。イエスのところにとどまるならば、私たちはイエスにつながっていることができるというのが、福音書の告げるメッセージなのです。
 
するとそこは、夜ではないということになります。
 
◆夜と昼、そして
 
イエスの許を去ったユダの記事に、「夜であった」(30)と記されていたのは、そのためでもあるように、私は捉えました。
 
ユダは確かにイエスを裏切りました。この「裏切る」という語が、別の箇所では「引き渡す」と訳されているのは有名な話です。ご存じなかった方は、ぜひお見知りおきください。聖書で「引き渡す」と「裏切る」は、原語では同じなのです。
 
イエスを当局に引き渡す役割を、これからユダが担っていくのですが、すると、それこそが裏切り行為である、というのはよく分かります。ただ、「引き渡す」の方が、より具体的に、していることが分かります。「裏切る」が非常に抽象的な表現であるのに対して、「引き渡す」の方は、イエスの運命を如実に決定することになるでしょう。ただ、言葉のもつ意味としては、「裏切る」とはほぼ自動的に、敵に「引き渡す」ことだという了解があるのだと思われます。
 
30:ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。
 
ユダは夜の中に消えて行きました。漆黒の夜でした。しかし、他の弟子たちは、イエスのいる所にとどまりました。そこにはイエスがいました。その命は風前の灯火の状態であるとはいえ、イエスが共にいれば、光がありました。
 
聖書は、神と共にあることが、光の中にいるということを、よく強調しています。
 
あなたは死から私の魂を/つまずきから私の歩みを救い出してくださいました/神の前、命の光の中を進み行くために。(詩編56:14)
 
イエス自身も、「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」(ヨハネ12:36)と言われました。まだ光がそこにある。信じるチャンスである。これはヨハネの福音書でしたが、これを下敷きにした文書として、ヨハネの手紙と呼ばれるものがあります。そこでも同じようなことが、人間の立場から言われています。

しかし、神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。(ヨハネの手紙一1:7)
 
キリスト者は、光の中を歩むのだ、と教えられます。――でも、それでよいでしょうか。ああ、輝く光の中に自分は生かされ、人生の歩みを日々営んでいる、と告白できるでしょうか。もしかすると、そういうプレッシャーがかかると、息苦しくなってくる人はいないでしょうか。
 
私は、苦しくなってもよいのだ、と考えます。その苦しさの中から、顔を上げて神を見るという経験を与えられるからです。全き光の中を日々歩いていて「ハレルヤ」といつも歌っています、という人がいてもよいのですが、多くの場合、そうはいかないのではないか、と思います。私もそうです。私自身の問題もありますが、この世の中の苦難を背負って生きる人々のことを思うと、とても能天気に喜んでばかりいることはできないように思うのです。
 
◆夜と昼ではなく
 
クリスチャンなのだから、喜んでいなければならない。暗い顔をしていてはならない。そういう声が、ないわけではありません。けれども、それはずいぶん刺々しい言葉に聞こえてきます。いったいどんな立場の人が、どんな顔をして、そのようなことを、辛い思いの人に突きつけているのか、と思うと、私もまた辛い思いになります。
 
いまが夜でも、いい。夜が夜であることを、認めたらいい。夜であるとき、夜明けを信じていられたらいい。ただ、それをどのように待つのか、そこさえ心に納めていればいい。
 
ドマについての託宣。
セイルから私を呼ぶ者がいる。
「見張りの人よ、今は夜の何時か。
見張りの人よ、今は夜の何時か。」
見張りは言った。
「朝は来る、だが、まだ夜だ。
尋ねたければ尋ねよ。
もう一度来るがよい。」(イザヤ21:11-12)
 
夜には見張りがいます。城壁都市は、夜は門を閉め、不審者が侵入しないように見張っています。夜を徹して見張る様子は、イエス誕生の時に、野宿をしていた羊飼いを思い起こさせます。羊飼いたちは、その夜の向こうに、救い主たる幼子に会うという素晴らしい恵みを受けました。
 
同じクリスマスの記事ですが、誕生したイエスを尋ねたもうひとつのグループがありました。東方の博士たちです。お告げは聞いた。だが、どこにその救い主は生まれたのか。知らない異国を尋ね、途方に暮れていたかもしれません。しかし、空に輝く星が現れたときに、博士たちは、跳び上がって喜んだのでした。その星が、イエスのところに導いてくれたのでした。
 
夜は昼でないから、だめだ。そう決めつける必要はありません。確かに夜は昼ではありませんが、夜だからこそ、些細な光が一筋の導きとなります。希望をもたらしてくれます。
 
夜は更け、昼が近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けましょう。(ローマ13:12)
 
どうか、ユダのように夜に陥ることがあったとしても、そこから抜け出せない、と思い込みませんように。確かに、いま全き昼の光の中で喜んでいる状態ではないかもしれません。心の中はもう夕暮れであり、やがて暗黒の夜になると望みをなくしかけているかもしれません。このままではもう闇しか待ち受けていないのだ、と不安に襲われ、あるいは支配されかけている人がいるかもしれません。
 
けれども、キリスト者には、聖書を信じる者には、その危険を回避する道が与えられています。そこには光があります。確かに光が射しています。イエスの十字架の光が射し込んでいます。私たちには、確かな希望が与えられているのです。その向こうには、光の国、神の国があります。いまはぼんやりとしか感じられないかもしれませんが、やがてくっきりとそれを知ることが許されている、その約束が投げかけられていると信じるチャンスが、ここにあるのです。
 
◆イエスは裏切らない
 
しかし、私たちは、鈍い者です。予め出来事を知ることはできません。さらに、それどころではなく、起こったことすら分かっていないというのが実情ではないかと懸念します。せめて起こったことに対しては、適切な知恵を以て知るようになりたいものです。起こったことを正しく受け止めておくならば、未来への見通しも、賢いものが含まれるのではないかと期待できると思うのです。
 
こうして福音書や聖書の他の文書を、私たちは「起こった出来事」として読みます。起こったことを知ろうとしています。「知る」とは、いつもご説明するように、ただ頭で知識をもつというだけでなく、人格的に体験する営みを含みます。イエスの出来事を「知る」ことで、神の計画に触れることができると期待できるのです。
 
イエスは十字架の上で酷たらしい死を経験しました。しかし、イエスの十字架だけが、暗黒を、漆黒を、真の意味で知り尽くした出来事だったのでした。私たちが負うべき絶望を、代わりに知ってくださったのです。そしてそれで終わることなく、復活という完全な光への道を、私たちに先立って進み歩いてくださいました。それがイエスでした。このイエスから、目を離さないでいれば、その先には、同じ光が待ち受けているのです。それが聖書という、過去の記録が約束している未来です。
 
ユダが、イエスを引き渡しました。裏切りました。けれども、この私は、それ以上に何度もイエスを裏切っています。何度その戒めを破り続け、いまもなおけしからんことばかりやり続けていることでしょう。しかし、イエスの赦しは七の七十倍まで赦す方でした。それはかけ算の計算をせよということではありません。無数に、という意味、完全に、という意味にほかなりません。
 
そうです。私がイエスを裏切っても、イエスは決して私を裏切らないのです。私を、夜の底に引き渡すことをなさらないのです。イエスの救いは、それを取り消すようなことも全く知らないかのように、私を健気に、一途に、赦し続けてくださっているのです。
 
イエスはいくら自身が裏切られても、あなたを裏切ることはありません。神の約束は、ひとつとして地に落ちることはありません。イエスはあなたを信頼しています。夕暮れにさしかかったあなたが、夜に呑まれてしまわないように、光を投げかけてくださっています。その光を、もう裏切ることはしたくないではありませんか。その一筋の光を。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります