耳ざわりのよい言葉

2023年3月16日

耳ざわりのよい言葉について考えてみる。
 
などと言うと、クレームの嵐が襲ってきそうである。「流れに棹さす」とか「気の置けない」とか、正反対の意味に勘違いして使われる言葉が、毎年言葉の調査で報道されるが、「耳ざわり」もその部類であるかもしれない。推測するに「耳触り」だと思い込んでの誤用であり、「耳障り」という意味を思いつかない人たちの使い方ではないか、という気がするが、的を外しているかもしれない。
 
実際、国語辞典によっては、「耳触り」が載っているものもある。幸いいま用いている日本語変換ツールATOKでは、そのように変換する辞書は用いられていないのだが、そのように用いている人が1割ほどいる、という調査もある。夏目漱石にしても、「耳障」と書いて、「聞いた感じ」の意味で使っているところがあるそうだ(『こころ』)。だが、概ねこれはまだ「耳障り」でしかない、というのが通常の感覚のようであるらしく、少し安心する。
 
「婦人参政権」などという言葉は、最初それを聞いた男たちは、何を馬鹿なことを、と思ったのではないか。何をたわけたことを、と思うのも、明治憲法はそのようなことを認めないでいたために、あまりに非常識だと思われたことだろう。男からすれば、かもしれないが。
 
20世紀になってから、ようやく女性参政権を求める運動が明らかになっていくが、実現するには敗戦を経験しなければならなかった。いや、日本だけの問題ではない。欧米諸国でも、それが実行されたのは20世紀になってからが殆どである。バチカン市国では、いまなお女性参政権はないという。サウジアラビアが近年初めてそれを認めたことは、ニュースになった。こうした例は、宗教国であるところに理由があるものと思われる。
 
その宗教は、従来同性愛を厳しく禁じていた。禁じるどころか、該当者は死刑であった。多くの文学者や芸術家が、そのために命を落としたことも有名だが、無名の人々の犠牲者は計り知れないほどである。それが、近年「LGBT」や「LGBTQ」などという表現で示されると、それを支持する方が正義であるというような風潮ができてくる。
 
キリスト教会の内部でさえ、そうした人々の味方であるような言い方が多くなった。「さえ」と言ったのは、聖書の記述を根拠に、真っ向から否定する人々が依然多数だからだ。しかしその味方にしても、ずっと以前から当然のように味方ですよ、というような顔をすることさえある。彼らを窮地に追い込み迫害していたのは、まさにキリスト教ではなかったのだろうか。
 
最初は耳慣れない言葉であっても、社会に通用するようになってきて、だんだんそれが当たり前となり、それが正義となり、もはやそうでなくてはならないようにさえなってゆく。歴史という大袈裟(この言葉、使って差し支えないだろうか)な言葉ではなくても、世の中で自然によく起こっていることである。
 
いま世の中でひとつ例を挙げるとすれば、ここで「多様性」という言葉を取り上げてみたい。「多様性」は様々な性質のものが存在することをいうが、人でも物でも、さまざまな領域で使用可能な言葉である。ここのところ、その英語をカタカナ化した「ダイバーシティ」という語が飛び交っていることは、むしろ逆によく知られていることかもしれない。
 
世の中で「多様性」を認めるということが、正義になりつつある。それに反する発言をした政治家は、とんでもない悪者のように報道される。それを擁護する発言が憚られ、それを非難することが正義のようになっていく。
 
私が言いたいのは、この内容そのものについてではない。問題にしたいのは、ひとつ事態が傾けば、一気に世の中がひとつの価値観に集まってしまうことである。一人ひとりがじっくり考え、様々なケースを(それこそ多様に)調べ、思索して、その意見を出すのではない。「なんとなく、みんながそう言っているから」それが正しい側にまわり、反対意見を言う人は「けしからん」扱いを受けて当然ということになる。ここに、注目したいのだ。
 
そのことは、ようやくいま「マイクロアグレッション」とか「アンコンシャス・バイアス」とかいう言葉で、一部の人々に意識されるようになってきた。しかし、英語表現で片付けられないほど、この日本という土壌には、強い力が宿っていることに気をつけなければならない。
 
寄らば大樹の陰というのは、日本文化にしみついた空気をよく表す言葉だと思う。大樹の陰にいなければ不安だという心理は、この社会に生まれ育った者には、生来のものであるかのように浸み渡っているように思えてならない。
 
それは怖いことである。それが、これまでいろいろと問題とされた歴史の中の出来事を生みだしたのではないか。そこに焦点を当てて、よくよく目を覚ましている必要があろうかと思う。
 
「多様性」を標榜する当人が、自分の身の保全を脅かす発言をした人に圧力をかける、ということは、実にしばしばある。キリスト教会の中にも、それはある。あるいはむしろ、そもそも反対意見を言わないで波風を起こすまい、という空気がすでにある、と言ってもよい。
 
教会総会というものが、年に一度は開催されるのが今の社会での決まりであるが、そこではおとなしくしているのが忖度である。そういう教会もある。他方、もめる教会も多い。一言居士そのものが迷惑であるのではないにしても、自分の信念を押し通すためにもごり押しの姿勢になったり、誰かを誹謗中傷したりするようなことが、実際にあるのだ。
 
そもそも議論というものを弁えていない文化であるのかもしれない。学校ではそれを学ぶ(その学び自体が成っていないというとも言えるが)し、入試にも出るのだが、社会に出るとそんなものは実に無力である。かろうじて形式を保っている国会中継であっても、実際には「議論」にはなっていないと言えば、失礼になるだろうか。
 
なにも、揶揄しようとして言っているのではない。恐ろしいのである。議論ならぬものが議論として有効だと信じられており、そこに声の大きな者が力をもつような場の法則が及び、感情由来の思い込みが一気に票数を獲得し、世の中の正義と化してゆくのが、実にありがちな常態となっている現実について懸念する。
 
それは、多様性を許さない社会へと導いていく。「多様性」という餌につられて、結局はそれと正反対の窮地に陥ることになる可能性を弁えておかなければならないであろう。それは、「多様性であれ」という言葉がそれの反対を認めないが故に、多様性ではなくなっていく、という論理的パラドックスのことを言っているのではない。だから怖いのである。
 
そういうことを踏まえて、考えていよう。「耳障り」を踏み潰す働きがあることを警戒しなければならない。むしろ「耳ざわりのよい」社会、心底「多様性」を認め合える社会であってほしい、と捻くれた言い方をしてみてもよいのではないか、と申し上げたというわけである。



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