【メッセージ】解放の希望

2023年3月12日

(ヨハネ12:12-19,ゼカリヤ9:9-12)

その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、
イエスがエルサレムに来られると聞き、
なつめやしの枝を持って迎えに出た。
そして、叫び続けた。
「ホサナ。
 主の名によって来られる方に、
 祝福があるようにイスラエルの王に。」(ヨハネ12:12-13)
 
◆エルサレム入城
 
春。そう呼んでよい時季となりました。キリストの名を信じる者たちにとっては、大切な季節を迎えます。イエスがこの春の頃に、十字架につけられ、そして復活したことは、新約聖書の証言からすると確実であるからです。
 
クリスマスは、聖書の記事からは、季節を知ることはできません。が、十字架と復活、最近後者は「イースター」という呼び方が一般的になってきましたが、その出来事は、確かに春だったのです。
 
というのは、それが過越の祭を迎える時であった、と福音書がすべて証言しているからです。2023年のカレンダーでは、それは4月にさしかかります。あと1か月です。クリスマスの場合、あと1か月という辺りで、「アドベント」に入ります。キリストの誕生を待ち望むという形で、礼拝を重ねていきます。この復活の出来事の1か月前については、そのような規定はありません。しかし、この機会に、私たちはイエスの十字架と復活を深く思うひとときを過ごしたいと願い、これから1ヶ月間を、そういう聖書に触れていこうと考えています。
 
そのため、エルサレムへ向けて歩むイエスたちの歩みを辿ることにしましょう。エルサレムの中なのか郊外なのか、どこかは確実ではありませんが、イエスの死と復活の場所は、エルサレム地方であることは間違いからです。この春は、ヨハネによる福音書を軸として、お読み致します。
 
12:その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、
13:なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。/「ホサナ。/主の名によって来られる方に、祝福があるようにイスラエルの王に。」
 
群衆は、イエスを歓喜の声で迎えました。様々な不思議な業を起こし、他の人には見られない教えを垂れてきたイエスです。しかし、それだけではこれほどの歓迎は生まれなかったったことでしょう。イエスは、ユダヤの救いを実現するリーダーだと見られた、と想像されます。ローマ帝国の支配下にあったユダヤ人たちは、旧約聖書の預言にあった、救い主がいつか現われることを待っていた、とされています。イエスがその救い主であるという期待が、民族の解放への思いから、激しくなっていた、というように考えられています。
 
13:なつめやしの枝を持って迎えに出た。
 
いや、これは「なつめやし」と決めるのはどうか、と異議を唱えているのが、田川健三さん。「椰子」であるというだけにしておいたらどうか、ということですが、さて、私たちもイエスを迎えることとすると、この手に何を持って、迎えますか。
 
◆子ろばの経緯
 
14:イエスは子ろばを見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。
15:「シオンの娘よ、恐れるな。/見よ、あなたの王が来る。/ろばの子に乗って。」
 
この「子ろば」という単語には、聖書をご存じの方は、ピピッと反応なさるだろうと思います。教会学校でも、子どもたちに人気のキャラクターです。イエスを乗せてエルサレムに入るのは、たてがみも艶やかな馬ではなくて、ちいさなろばでした。これは他の福音書にも書いてあります。
 
しかも、他の福音書では、この子ろばが、不思議な経緯でイエスの許に連れてこられることが書かれてあります。詳細をお読みはしませんが、イエスが突如弟子たちに、これこれのことをして子ろばを連れてくるように、と命じたところから始まります。他人のろばを勝手に連れ出すことはできないはずですが、「主がお入り用なのです」とイエスに言われたとおりに告げると、許可されるのです。
 
ところがヨハネによる福音書は、このエピソードに全く触れません。いきなり、「子ろばを見つけて」で、子ろばが登場します。子ろばが見出されるに至った劇的な出来事に、ヨハネは興味を示さないのです。それとも、このヨハネによる福音書は、他の福音書よりも時代的に後で書かれたと考えられていますから、他の福音書がもう十分描いたことについては、ことさらに書く必要はない、と考えたのかもしれません。
 
あるいは、その不思議な入手の仕方への、批判の思いがあったのでしょうか。不思議な出来事が描かれていると、どうしても私たち読者ないし聴き手は、その不思議さに目を奪われます。ヨハネにしてみれば、そこは注目すべきところではなかったと理解していた可能性があります。目を奪われるのは、そこではないのだ、と。
 
イエスを、ある種のいけにえと受け取ることを、ヨハネはやがて描きます。いけにえの動物をどのように手に入れたか、ということは、旧約聖書でもまず語られることがありません。アブラハムが息子イサクを献げようとしたときに、主の山に代わりのいけにえが与えられたということのほか、思い出すものがありません。
 
子ろばは、いけにえではありませんが、どうやってそこに現われたのか、そこに注目すべきではない、ということではないか、と、いまは捉えてみます。だとすると、ヨハネはもっと何に注目するように言おうとしていたのでしょうか。
 
◆ゼカリヤ書への眼差し
 
14:イエスは子ろばを見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。
15:「シオンの娘よ、恐れるな。/見よ、あなたの王が来る。/ろばの子に乗って。」
 
次のように書いてある、というのは、明らかに旧約聖書ゼカリヤ書の一節です。
 
娘シオンよ、大いに喜べ。/娘エルサレムよ、喜び叫べ。/あなたの王があなたのところに来る。/彼は正しき者であって、勝利を得る者。/へりくだって、ろばに乗って来る/雌ろばの子、子ろばに乗って。(ゼカリヤ9:9)
 
ヨハネが、私たちの目を向けさせたいのは、このゼカリヤ書ではないのか。ここでは、その角度から読み進めてみたいと思います。ゼカリヤ書を見よ、ここからイエスについて知れ、とヨハネは言いたいのではないか、と理解してみるのです。
 
このゼカリヤの預言が、いま実現したのだ。それだからこそ、引用するのです。では、このゼカリヤ書の箇所では、何が描かれているのでしょうか。
 
新約聖書はギリシア語で書かれています。そこに現れる「キリスト」という称号は、旧約聖書では「メシア」と記されています。ゼカリヤは、そのメシアをここで考えている、あるいはここで描かれているのはメシアであって、イエスこそそのメシア、つまりキリストなのである、と言おうとしているのでしょうか。
 
そう受け止めてもよいと思います。それが、キリスト者の受け取り方です。他方、このゼカリヤ書そのものを研究することによって、ゼカリヤが言おうとしていたこの「王」は、実際当時生まれたある王のことである、という意見もあります。それはかなり信憑性があることだろうと思われます。
 
しかし、面白いのは、空知太(そらちぶと)栄光キリスト教会の銘形(めいがた)秀則牧師が公開しているウェブサイトにおける「子ろば」についての説明です。煩雑さを避けるために簡潔にお伝えしますが、「子ろば」を意味するヘブライ語は、関連する動詞に、「目を覚ます」という意味と、「目を見えなくする」という意味とが同居しているというのです。また、エルサレムの「都」あるいは「町」の語も、言葉の上でつながりがあるのだといい、こうした半ば言葉遊びのような関連で、イメージがつながっているのだそうです。
 
エルサレムに入るイエスについて、イエスが預言のメシアであるということについて、目が見えない人々と、目が覚めた人々とが現れる、というふうに、その牧師は指摘しています。従って、このろばのように、イエス様のお手伝いをしたい、というようなことを、書き手は全く意図していない、というのです。
 
◆ゼカリヤ書から聞く
 
9:娘シオンよ、大いに喜べ。/娘エルサレムよ、喜び叫べ。/あなたの王があなたのところに来る。/彼は正しき者であって、勝利を得る者。/へりくだって、ろばに乗って来る/雌ろばの子、子ろばに乗って。
 
ゼカリヤ書9章です。ここの「へりくだって」は「柔和で」と別の訳になっていますが、私たちは思い起こします。「柔和な人々は幸いである」という山上の説教の言葉(聖書協会共同訳では「へりくだった人々」となっている)や、イエスが、自分を「私は柔和で心のへりくだった者」だからイエスの軛を負うようにと言っているところです。後者は、「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)という、教会のお誘いでしばしば見かける言葉の次の節でした。
 
新約聖書がここから影響を受けたかどうかは分かりませんが、つながるイメージは大切にしてよいかと思います。ところがこれに続いては、次のような言葉が見られます。
 
10:私はエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。/戦いの弓は絶たれ/この方は諸国民に平和を告げる。/その支配は海から海へ/大河から地の果てにまで至る。
 
「この方は諸国民に平和を告げる」とあるように、このろばに乗ってくる「王」は、平和をもたらすのだ、という視点を、私たちもはっきりと意識したいと思います。この王の訪れは、平和への道だったのです。しかも、イスラエルの地のみならず、「海から海」、「大河から地の果て」にまで至る平和だというのです。
 
私たちは、イエスを歓迎する者たちですね、と最初にお尋ねしました。それではいま、私たちはこの聖書からの問いかけに、どう応えましょうか。このイエスは、全世界に平和の道をつくるために来られたのだ、という預言の言葉です。昔から一貫して告げられてきた、入場する王がもたらすことになる「平和」について、私たちはどのように関わりましょうか。
 
さらに、ゼカリヤ書は次に、捕らわれ人の解放について告げています。
 
11:あなたについては/あなたと結んだ契約の血のゆえに/私はあなたの捕らわれ人を/水のない穴から解き放つ。
12:望みを抱く捕らわれ人よ、砦に帰れ。/今日もまた、私は告げる/私は二倍のものをあなたに返す、と。
 
あなたというのは、イスラエルのことだとしてよいでしょう。捕らわれ人というのを、捕囚の民としてしまうのは簡単かもしれませんが、それで満足してしまうのはもったいない気がします。旧約の世界からすれば当たり前かもしれませんが、ここには「契約の血」という表現がありました。イエスがこの後に流す血とのつながりが感じられます。捕囚からの解放に限らず、罪の縄目に束縛されて身動きがとれないような人間を、罪から解放するのだ、自由にするのだ、というイエスの救いの結果を、ここに読み込むのは、ただのこじつけにはしたくないように思います。
 
もう一つ、「二倍のもの」を返すのだ、と預言は伝えます。「二倍」ということで私が思い起こすのは、ヨブ記です。不条理な不幸に見舞われたヨブは、友人たちとの問答の中で神の問題を深く考え、また気づかされていきます。神はついに現れ、ヨブを叱責しますが、ヨブはテストに不合格だったわけではありませんでした。
 
ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄を回復した。そして、主はヨブの財産すべてを二倍に増やした。(ヨブ42:10)
 
私たちが罪に悩み、苦しんだ後には、イエスの救いは、二倍の祝福をもたらすのだという希望を懐きたいものです。恐らく、二倍では済まないだろうとは思うのですが。
 
◆平和のメッセージ
 
預言からすると、イエスはこの入場で平和をもたらすということを私たちは期待しました。しかし、平和とはいったい何でしょうか。
 
しばしば、物事をイメージするために、その反対を掲げて対比することが有効です。反対のことを考えると、その否定形として、元の概念がイメージできるのです。そこで私たちはいま「平和」の反対を挙げてみることにします。
 
すると「戦争」という語が、多くの人の頭に浮かぶだろうと思います。トルストイの作品を挙げるまでもなく、「戦争と平和」は、如何にも対極的なものだと見なされます。でも本当にそうでしょうか。
 
平和は極めて抽象的な概念です。目で見ることや直接体験することが難しいものです。しかし戦争は、具体的です。直接体験することが可能です。もちろん、「戦争状態」という言葉で表すものは、具体的ではないかもしれません。しかし、それは「状態」の語がある場合のことです。また、「平和状態」という言葉は普通使うことはありません。
 
「平和」と「戦争」は、同じ土俵でにらみ合う対立概念ではないような気がします。「災害」のない状態を平和だと呼ぶならば、「災害」も反対の言葉と見なされ得ますが、それもまた、「戦争」と同じように、具体的なものです。戦争や災害などをひっくるめたものと、「平和」とが対立するように思われるわけです。
 
そこで例えば「混乱」という言葉を想定すると、それは「平和」と同様に抽象的な概念となります。もちろん、これが正解だというわけではありませんから、参考程度にしてください。
 
この「平和」にしても、心の領域で捉えるならば「平安」という訳語になる語だと思われます。日本語ならさらに「和平」という語もあって、ややこしくなります。この「和平」の場合は、何かしら悪い状態から平和な状態に変わる動きを感じさせます。「平和」は、それ自体が「状態」であるわけです。
 
ややこしい話ばかりしてきました。専門の方からお叱りを受けるであろうような、素人談義に花を咲かせてばかりいるわけにはゆきません。ただ、昨年から特に大きな戦争状態が、世界を大きく揺り動かしていることで、いっそう「平和」について思いを馳せることが多くなっているのは事実です。当地の人々の生命と財産が脅かされているのも事実ですが、国を逃れた人をどう受け容れるとよいのか、それはこの福岡の街でも実際問題として起こっていることです。さらに、世界経済に投げかける影響も小さくはありません。ただでさえコロナ禍で疲弊していた経済に、追い打ちをかけるような情況になっています。
 
それでいて、西側諸国は、日本を含めて、ロシアが悪いという一面的な見方だけで立ち向かっている現状があります。果たしてそれが本当に正義なのか。それが平和への道なのか。もし一方的にロシアが悪いと合唱するのであれば、どうしてイラクを攻撃するアメリカには悪だという声をぶつけなかったのか。あれもただイラクだけが悪だったのか。
 
私たちは、常に自分を正義の側だと前提して、戦争を見ます。戦争は、自分が正義だと確信するから、起こるのでしょう。「わたしは悪の帝王だ」と現れる怪人とは違うのです。
 
◆ホサナ
 
ゼカリヤの預言にある王が平和を告げるとき、何が起こったのか、もう一度見てみましょう。
 
11:あなたについては/あなたと結んだ契約の血のゆえに/私はあなたの捕らわれ人を/水のない穴から解き放つ。
12:望みを抱く捕らわれ人よ、砦に帰れ。/今日もまた、私は告げる/私は二倍のものをあなたに返す、と。
 
捕らわれていた人が、解放されたのです。縛られていた人が、自由になったのです。もちろんバビロン捕囚から解放されるという大きな具象的なことが目の前にありました。だからこれが、平和を告げたことになりました。
 
しかし私たちは、政治的な混乱だけに限らず、魂が混乱するのです。罪の意識が、人から平和を奪います。ああ、ばれたらどうしよう。こんなことをしてよいのか。私たちは、ドキドキします。落ち着かなくなります。自分に非があるとき、自分はそれを知っています。それをさしあたり「罪」と呼んでおきますが、罪があることを知るとき、私たちは平和でなくなります。堂々としていられなくなります。
 
それだから、私たちは神を見上げるのです。神に叫ぶのです。「どうか救ってください」と。
 
どうか主よ、救ってください。
どうか主よ、栄えをもたらしてください。
祝福あれ、主の名によって来る人に。
私たちは主の家からあなたがたを祝福する。(詩編118:25-26)
 
この「救ってください」が、福音書が入城のシーンで描く「ホサナ」に値する語であると見られています。
 
12:その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、
13:なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。/「ホサナ。/主の名によって来られる方に、祝福があるようにイスラエルの王に。」
 
語としてはそうなのですが、恐らくその言い回しの原義は消えて、「万歳」という感じで使われていた、と思われる「ホサナ」。そう、日本語でも「さようなら」は、「そのようならば」の意味になど誰も考えていません。「ホサナ」も、「救い給え」の意味で叫ぶような言葉ではないはずでした。が、聖書は巧みです。様々な仕方で旧約聖書を用い、イエスがメシアであることを証拠立てようとしてきました。
 
ヨハネは、例えば13:7で、「私のしていることは、今あなたには分からないが、後で、分かるようになる」とイエスに言わせて射ます。ほかにも何度か、今は分からないが後になったら分かる、というような言い回しを記しています。十字架や復活の後になると、こうして言っていることの本当の意味が分かる、と予告するのです。ここでも、次のような言い方がなされています。
 
16:弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々はそのとおりイエスにしたのだということを思い出した。
 
イエスがメシア、つまりキリストであることも、やがて弟子たちには分かる、というわけですが、それは直接的な意味に過ぎません。間接的には、このヨハネによる記録、ヨハネによる福音書を読む後世の読者には、分かるはずだ、と投げかけているに違いありません。つまり、いまここでこの言葉を聴く私たちには、分かっているはずだ、と。
 
でも、本当に私たちは、分かっているのでしょうか。
 
◆解放の希望
 
17:イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをした。
18:群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのしるしをなさったと聞いたからである。
19:そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見ろ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男に付いて行ったではないか。」
 
ラザロの復活を見た者が証しをした、などとここには書いてあります。恐らくこの辺り、主語をはじめとして、文脈が乱れているのだと思います。鈍い私には真意がよく分かりません。ただ、この群衆の混乱の中で、ファリサイ派の人々が仲間内でひそひそ話しているところが気になります。「世をあげてあの男に付いて行った」と言うのですが、原文を見る限り「世をあげて」という言葉は見当たりません。「世(コスモス)が」としか書かれていないのです。
 
イエスを人々が熱狂的に迎えた。それを見て、イエスを殺そうと企んでいた側からすれば、自分たちが不利になった、ということを、これは言おうとしているのだと思います。しかし、本当に群衆はイエスに付いて行ったのでしょうか。この後数日の内に、これら群衆は、一斉に「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫ぶことになります。
 
このとき、弟子たちもイエスを棄てて逃げ去りました。イエスに世が付いて行ったどころか、イエスは全くの孤独になってしまったのです。イエスは、人ならば疎外感に包まれたことでしょう。
 
それでよいのでしょうか。私たちも、このヨハネの福音書により呼びかけられている者です。私たちもまた、イエスを孤独にさせてよいとは思えません。私たちこそ、イエスに付いて行く必要があるのだと私は思います。
 
大勢の群衆は、なつめやしの枝を持ってイエスを迎えに出ました。私たちもその枝を手にしましょう。その枝を振りましょう。イエスを迎えましょう。
 
舌の根の乾かぬうちにイエスを「十字架につけろ」と怒号の中に叫び続けたあの群衆のようにではなく、どこまでも従うと言ったペトロの心に近づきましょう。そのペトロさえ、この後イエスを「知らない」と言う痛い経験をしました。私たちはそれを聞いて知っています。出も、ペトロの最初の意気込みを買いましょう。その信仰で、イエスを迎えましょう。
 
イスラエルの人々は、バビロンで捕らわれの身となっていました。私たちも捕らわれていました。罪に、罪の意識に、捕らわれていました。世間にも捕らわれていますし、人間関係の中に捕らわれているかもしれません。イエスを迎えることで解放を求めたように、私たちもこの束縛から、不自由から、解放されることを求めることができます。イエスの十字架と復活の出来事は、私たちをその罪から解放するのです。私たちは解放の希望を与えられるのです。いえ、すでに与えられているのです。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります