他者と自己

2023年3月8日

対面セールスで「お母さん」と若手社員がご婦人を呼ぶ。「私はあんたを産んだ覚えはありません」とぴしゃり。こうしたお笑いネタは、実はごく日常的であるとも言える。
 
ある人は、子どもを前にしては母親であり、自分の母親を前にしては娘と呼ばれる。生徒を前にしては先生であり、姉がいれば妹となる。会社で部下がいれば上司であるだろうし、売る店の中に来れば客となろう。
 
人は、本当に自分一人であったとしたら、自己アイデンティティが掴めなくなるという。誰か他者がいて、初めて自分の立場や自分が何であるか、ということを知るものである。
 
他者を前にして、自己が位置づけられる。かつては、神を前にして、人間としての自己を意識したであろう。「そんなことをしていると、神さまからバチが当たるよ」と言われると、子どもは良い子でいようとしたものである。もちろん、イスラエル民族が導かれた旧約聖書の記録を見ると、神の前に出るということがどれほど大きなことだったか、今もなお痛切に伝わってくる。
 
その神を、なかったことにしてきたのが、西欧近代の思想史の大きな動きであった。現代でも神を信じる信仰者はいるが、この近代文明に基づいた学問の恩恵に自然に与った日常生活を堪能しているという意味では、その思想史の流れの中に位置しているし、棹さしていると言ってもよいであろう。
 
かつて神は、確かに一種の他者であった。この神を前にして、人はどう生きるか、定められていたというのが常識であった。だが、神を仮定しなくなったら、人は何を他者として自己のアイデンティティを確立するのであろうか。
 
絶対的な権威などない。上に立つ王とて、たかが人間である。フランス革命の血生臭い刑罰は、王家を例外とするものではなかった。革命でも市民運動でも、相手が人間だから、暴れることができたのだ。
 
言葉尻だけ捉える癖のある方々には、よく論旨を見て戴きたいが、こうした点を鑑みると、日本の天皇制というのは、よくできた政治であったようである。国民性という点にマッチしていたという理由も加えなければならないだろうが、天皇という他者がいたからこそ、自分の立場を弁えるという動きが確定されたのである。万人が平等になり、しかも神を置かなくなってからは、人間の危険な暴走は、歯止めが利かなくなっているような気がする。
 
あの人間は、悪である。これが、そのときの運動家のスタンスであっただろう。そもそも戦争や争いは、相手が悪であり間違っており、自分が善であり正義であるという信念なしには生じないものと思われる。
 
自分に対する他者が、悪である。従って、自分は善である。そのように証拠立てようとすることがあるかもしれない。だが、その前提は、自分が善である。だから他者が悪である。こういう循環論の中で、確信されているものなのかもしれない。相手もまた、同様に思考しているからである。どこかで勝手な前提を決めつけているのである。
 
このような言い方をすると、自分はその枠に入っているわけではない、と根拠のない自信をお持ちの方も現れる。戦争を起こしているわけではないから、などと。だが、私たちは、始終誰かを悪者にしていないだろうか。テレビを見ると、事件を起こした犯罪者が公開処刑されている。家庭を破壊した芸能人を吊し上げるのは、結婚や出産を祝うよりも多くの時間を充てて報道しているのではないか、という印象を私はもっている。どうしてそんなことをしたのか、と事件を報ずるのは、さも心配そうな顔をしてコメンテーターが語る時間を費やすが、こうした番組に共通しているのは、誰かを悪者にしている、ということである。
 
理由は簡単である。そこに悪者としての他者がいるということは、それを評する者、視聴している自分は、善い人間であるという立場を得るからである。
 
自分が正しいことを示すために、ひとは悪い者を必要とする。悪い者が浮かび上がれば、自分は正しい側にいると言いやすくなる。
 
聖書は、その「聖」という文字とは裏腹に、人間の汚い罪をひたすら描き続けた書物である。聖書に描かれた人々をひたすら悪者にして、自分を善人の代表のように扱うような読み方をする信徒は、いないであろう。むしろ、「私たちは罪人です」と口にして祈り、語るはずである。
 
だが、気をつけなければならない。「私たちは罪人です」との祈りと、聖書に登場する悪人とが、対極にある場合があるのである。自分たちは罪人だと認めたということは、聖書に描かれている悪人とは違う、という意識が、潜在的にでもある場合があるのである。
 
もちろん、イエス・キリストの十字架の贖いが、罪人の私たちを神の救いへ導いた、と口にしている。私たちは罪人だ、というところから、イエス・キリストが自分の罪のために死んだということへ告白が進めば、聖書の悪人と自分とが対極にあることを示しているように、これまた錯覚してしまうのである。
 
構造は幾重にも錯綜している。人は、どこまでも、悪い他者を立てたがり、対照的に自分を正義に見せたがるものなのだ。「私たちは罪人です」と口にするとき、そこに「自分」を欠いているという場合が、少なからずあるのである。また、口先だけで「私は罪人です」と言うことすら、可能なのであるから、人間の罪業は実に深い。
 
そういうところにまで踏み込んだ末に、イエスの十字架があるのだとしか私は思わない。「レント」の期間である。いわゆるイースター前の、日曜日を除く40日間をそう呼ぶ習慣がある。イエスを前にすれば、私はすっかり悪の側にいるしかない。イエスという他者を前にして、私が正義であるはずがないのである。



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