教会が教会であるために

2023年3月6日

キリスト教会もまた、3月は慌ただしい。年度末ということで、4月中に提出する義務のある書類のためにも、「総会」を開く必要があるからである。教会が宗教法人として運営されているならば、このように手続きを済ませていかなければならない。
 
その教会や教団によって、また構成メンバーによって、総会のスタイルや雰囲気もずいぶんと違うだろう。新たに教会に加わった人にとっては、なんとなくその雰囲気に合わせていくのが無難だと思われる。が、私はこれで、悔やんでも悔やみきれない失敗をしたことがある。そこでは役員選挙が行われたのだが、なんとなく教会が信用して毎年役員に選ばれている人物に、私も投票し続けていたのだ。後に、これがとんでもない人物であることが判明し、教会が壊滅的な状態に追い込まれていくこととなった。v  
教会総会に先立つ礼拝となると、やはり「教会」をテーマとする説教が望ましい。教会の意味を改めて認識するための、神と教会と自分との間の、トライアングル的な関係を覚るための説教であることが標準であろう。
 
私たちがイエスを信じるのは、教会に属する者として当然であるにしても、イエスの方がまた、私たちを信頼している、という点に気づくことは、大切なことである。新しい翻訳の聖書は、従来の「イエス・キリストを信じる信仰」という訳や、その意味で解していた箇所を、「イエス・キリストの真実」のような言葉に変えてしまった。
 
これには訳がある。実は原文そのものが、そのどちらにも解釈できるような言葉遣いであったのだ。近年、この新しい理解が次第に拡がってきたことを、思い切って訳語に用いたのであろうか。
 
「イエス・キリストの真実」となると、イエスのほうが、私たちに対して真実を尽くしているという方向性を示すことになるし、この「真実」は元来「信」を表す語であるから、イエスが私たちを信頼している、という事柄を伝えているのだ、と理解することが可能なのである。
 
神は、私たちの「総会」を、信頼してくださっている、と考えてよいのであろうか。それを自己正当化のために用いるような真似だけは、したくないものである。
 
さて、説教者は、使徒言行録20章28〜32節を開き、この箇所をよく味わうべきことを促した。「教会」のために、大切なのである、と。自分もまたその歴史の中に、居場所を与えられた。これは恵みである。神の民の一人とされたことを思うと、感慨深いこと限りない。この小さき者の、短い人生を、大きな神の歴史の大河の中に入れてもらえたこと。それだけで、胸が一杯になる。しかも、ささやかなこの人生が、その流れの中に、小さな砂の一粒でも運び、そっと置くようなことが赦されているというのだ。何らかの形で、教会の歴史、そして神が世に対して企図した歴史に対して、参与できたということは、喜ばしいことではないか。
 
パウロは夜も昼も涙を流して教えてきた。そこへ行くためにどれほどの身の危険に囲まれ、苦しみを受けてきたか、数え切れない。「苦しみに与る」のような言い方をするその言葉は、「苦しみに参加する」というようなニュアンスを含み持つものであるという。生きていれば苦労はある。苦難としか言えないようなこと、不条理に思えることが多々あるかもしれない。だが、あのイエス・キリストの苦難には遠く及ばないものである。そのイエスの苦しみの、何億分の一か知れないにしても、参加する感覚を与えられたのだとしたら、私の人生は、聖書と確かにリンクするであろう。
 
聖書の物語は、この自分の人生につながってくる。聖書の出来事は、いまここにまで続いているのである。
 
話しても話しても、言葉が通じない。理解してもらえないのは、相手の問題もあるだろうが、自分の問題にもまた気づいてもらえる機会となる。パウロのように、誰かに伝えることを命とする者にとっては、吐き出しても訴えても、空しく水の上にパンを投げるような連続に、めげることがあったことは想像に難くない。ただ、それだけ自分の口から福音を流し出しても、パウロは枯渇することがない。パウロの外から、天から、神の方角から、恵みは絶えず注がれてくる。渇いたならば、そこから補われる。その信頼は崩れないし、益々強くなることだろう。
 
そのように、おまえもまた、落胆する必要がない。失望してはならない。否、失望というものは、おまえにはありえないのだ。おまえを選んだのは私だ――このように、神からの言葉が響いてくる。その声を聞いたら、小躍りしよう。否、星を見出した博士たちのように、跳び上がって喜ぼう。
 
おまえは、私と共に生きるか。イエスからの言葉が聞こえてきたら、そして同じように聞こえた人と心が通じたならば、そこに神の教会が立ち現れる。教会が、すでにそこにある。
 
だから、「教会」という語を用いるときには、気をつけなければならない。聖書が告げる「教会」は、もちろん建物ではない。人の集まりであるし、その元の語の構成にある如く、「呼び集められた」者たちのつながりである。しかし、この世で「教会」と言われるときには、どうしても建物でもあるし、そうではないと嘆く人々の間でも、社会的組織であるように見なされてしまう。甚だしくは、仲良し倶楽部でしかない場合ですらある。
 
さらにまた、教会を自分の所有物のように勘違いをしてしまう人々が、教会組織を牛耳るという不幸な場合も、しばしば起こる。説教者はこれを、自分の意見を通そうとする個人の欲求のようなところを例示していた。もちろんそれもある。だが、もっと恐ろしいことがあるように私は思う。自分では決してそのようなことをしているつもりは全くないのに、教会を自分の思うままに動かしていこうとしてしまっている、という構図があるはずなのである。それはしばしば「自分たち」へと変ずる。つまり、集団でその幻想に陥ってしまうのだ。多数が、自分たちは正義だという幻想に酔っていく。結果、暴走が始まる。
 
歴史を振り返ると、後から、このようなことがあったことが分かるだろう。これについてはいま例示する暇がない。しかし、心ある人は、きっと思い当たると証言してくださるだろうと思っている。こうしたことを、過去を判断するのではなく、現在進行形の中で気づくことが望ましいのだが、これがまた難しい。
 
一応、牧師職という立場が、「魂への配慮」をするものだというのが基本になっている。だが、これを「魂の世話」という呼び方をすると、プラトンが描いたソクラテスの哲学となる。自ら気づくこと、そして知を愛し求めること、それが一番大切な生き方であり、また死に方にもつながる、というふうにでも言えばよいだろうか。キリスト教は、自らというよりは神から気づかせられるという捉え方をするのかもしれない。知を愛し求めるというよりは、「神を知ること」つまり「神との深い交わり」を求めることへとシフトするものであるような気がする。しかし、これを神との関係の中においてだけで済ますのではなくて、同じように神のもとに呼び集められた人間たちが、互いに配慮する関係があってこそできるものなのではないだろうか。
 
これは、牧師から一般信徒へ、という一方通行であるはずがないであろう。互いに配慮すべきであり、誰かが権威をもってその意志を下すばかりの関係構造があってはならないはずである。正に、教会を所有物にするという危険の本質は、そこにある。「魂」の指すものが、ソクラテスと聖書とでは全く違うだろうが、「教会」の中に、神からのものを確かに知ること、有り体にいえば神と出会うこと、これを軸に「共に」神の歴史の流れに与る喜びあれかし、と願うばかりである。



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