穴だらけの信仰論

2023年3月4日

聖書に書いてある――とくにプロテスタント信仰に立つ人は、この言葉に弱い。教会組織の伝統を拒み、聖書のみの信仰を標榜するプロテスタント教会としては、聖書に書いてあることを否むことはできない呪縛というものが、潜在的にもあるものである。
 
たとえ感情でどう信仰しようと、聖書にはそう書いていないよ、の一言でそれは間違っていることになってしまう。だって聖書にそう書いてあるからね。これを、原語が読めて研究論文でも出した人が言えば、もう勝負はついている。
 
だが、そうだろうか。以下、私はこの点に疑念をもちつつ、「穴だらけ」の議論をふっかけることにする。「穴だらけ」とするのは、学者でもなく専門知識もない者がほざくという意味を含むが、実は核心となる別の構え方も隠れている。それは後に触れたい。
 
聖書に書いてある。この決定的な言い分が、それほど信頼できるものなのだろうか。聖書そのものが、特に新約聖書は、写本による相違が様々である。まず、この点で、ある解釈が完全に正しい、という前提が揺らぐ場合がある。
 
しかし、たいていの問題点は、そこではない。イエスさまがわたしの罪の身代わりに死んでくださった……そんなことは聖書には書いていないよ、というような殺し文句の方に目を移したい。教会に来て、イエスの話を聞いて信じた、ある意味で純粋な信者に襲いかかる、「聖書はこう言っている」ふうな説明のことである。
 
自由主義神学というものが生まれ、聖書を文献として研究し、様々な歴史的根拠を踏まえて、聖書の批判的解釈がなされるようになった。その結果、聖書に書いてあることが、歴史的な背景の中で説明されるようなことが多くなった。まるで手品の種を公開するかのように、神がこうだと書いてあるのは、実はこういうからくりがあるのだ、と言い切ってしまう。それにより、神さまがしていたと受け止めていた純朴な信徒の信仰が傷ついたとしても、お構いなしである。だって、聖書に書いてあるのだから、と。
 
私たちは、自分に都合のよいところを拾い上げ、「聖書に書いてある」と指し示すことは得意である。逆に、自分に都合の悪いところは見ないふりをするのも、また得意である。そこで、私が言いたいのは、「聖書に書いてある」というだけの権威づけをやめようではないか、ということである。それは、プロテスタント信仰を揺るがすような言葉に聞こえるかもしれない。教会の伝統に道を譲れということなのか、と非難する人がいてもおかしくない。
 
だが、聖書には解釈という領域がある。部分だけを取り上げて、活用形や語の省略などをやかましく分析すると、従来と別の解釈が可能になる場合があるのだ。なにしろ聖書は、多くの筆者を通じて書かれている。書かれた当時の社会状況も関わるし、差し向けた相手の読者層や筆者との関係性なども含めると、様々な書き方や表現が可能であっただろう。第一、それらはよく見ると判明するが、文法的におかしなところが多数含まれるものである。揚げ足取りをするかのように解釈する余地はいくらでもあるだろう。
 
それを、解釈する方が、自分の感情を主体として、都合のよいところを取り上げれば、正直言って、如何様にも理解ができるかもしれない。それに対して都合の悪いところを見つけた反論者がいて、学問的議論がなされるというフィールドも成り立つのだが、そういうときにも「聖書にこう書いてある」ということ自体が否定されるわけではない。
 
だから、解釈者は「聖書にこう書いてあると私は読んだ」と言うのならば、それはそれで間違ってはいないのであるが、それを「聖書に書いてある」と断定していくことについては、傍からその議論を見る私のような者にとっては、警戒をしなければならない、と肝に銘じているわけである。
 
だからもう少し適切に言うならば、「聖書に書いてあると私は読んだ」ということがそこにあるだけである、としておきたいと思うのだ。
 
その言う人が、そのように聖書に書いてあると受け止めて読んだ、というだけのことにするのである。決して、聖書なるものがいわば客観的に、そのように書いてあるのではない、ということだ。だから、どんなに聖書の文献的研究が進んだとしても、イエスさまがわたしのために……と受け止めて目を輝かせている人は、何も気にする必要はないのである。研究者にしても、「そのように私は読んだ」と言えるだけのものであり、純朴な人も「そのように私は読んだ」と同じレベルで捉えているだけの話である。どちらが正しくてどちらが間違っている、というものではない、というように考えたいのだ。
 
しょせん、神のレベルから見れば、どちらも完璧なものではないだろう。どちらも、たかが人間である。自分が聖書をそのように読んだとして自分が幸福であるのならば、それでよいではないか。
 
そんな馬鹿な、と思う方もいらっしゃるだろう。聖書は真理だ、聖書に書いてあることが真理であり、それとは違う自分本位の読み方をしてよいはずがない、などと。だが、聖書を信仰すると口にする人も、必ず、聖書の中で、取捨選択をし、これは聖書に書いてあるからその通りだと従いたいが、これは聖書に書いてあってもその通りだと従うことはできない、というように選り分けているのである。
 
旧約聖書には顕著である。確かに十戒には「殺すな」と書いてある。しかし、それを聞いて山から下りたモーセは何をしたか。金の子牛を拝んだ者たちを「殺せ」と命じたのだ。いや、それはモーセであって神ではない、などとは言わないで戴きたい。その後も神は、カナンの民族を「殺せ」と立て続けに命じている。
 
だから、聖書に書いてあることを信じる者の中に、邪魔者は殺せ、ということが正義だ、と思い込んで、刃を振り回して神に従っているぞ、と思い込む人がいても、ちっともおかしくない。いやいや、それはしてはならないだろう、などと誰もが言うだろう。しかし、聖書に書いてあるのである。
 
新約聖書でも、たとえばパウロが手紙に書いていることについて、私たちはすべて従っているわけではない。そういうことに従って、キリスト教は、少数者を無条件に罪人呼ばわりして迫害し、殺し続けてきた歴史をもつ。聖書に書いてあることに反している者を殺すのは正義だ、というふうに、自分を正当化したために、人を殺した。ようやく近年それを反省したのか、今度はそういう少数者の味方を急にし始めたグルーブもあるが、まずは悔い改めるところから始めるべきであるだろうに、そういう話は聞いたことがない。
 
しかしまた、確かにパウロの提言に従っていることもある。福音に生きようと思うとき、パウロ先生の言うことは尤もだと受け容れて、善い生き方をしよう、と心がけるのである。このように、その都度聖書に従わなかったり、従ったりするというのは、私たちが自分たちの社会の常識や考えによって、聖書に書いてあることを、ほどよく、これには従うがこれには従えない、と振り分けていることを表していると言えるだろう。
 
つまり、私たちは誰も、聖書に書いてあることがそのまま正しい、というふうには所詮考えていない、というわけである。それを、ある解釈の場にさしかかったときだけ、これはこのように聖書に書いてある、と自分の説の根拠を表に出して、そうでないように考えるのは間違っている、というように言い放つ。聖書にはこのように書いてあるのだから、あのような信仰をもつのはおかしい、などと言い始める場合もあり、自分の感情や自分の納得できる方だけが、聖書に書いてあることに合致しているかのように強弁するのである。聖書に書いてある、という強調が、実は自分の感情や信念に基づいて選り分けている、ということについて、自身ではなかなか気づかないのが、人間の了見というものではないだろうか。
 
外れてしまわないように話を戻そう。しょせん、人間が聖書を読むということは、私がそのように読んだ、というレベルに留まるのではないか、と私は言っている。ただ、もちろん聖書をおよそどのような方向で読んでいくことが好ましいのか、ある程度の基準はあってよい。それが、教会が伝えてきた信条であるだろうし、教義というものである。信仰問答というものもある。それも、過度に「聖書にこう書いてある」と主張し始めるのは問題であると私は思うが、最大公約数的なものはあって然るべきではあると考えている。
 
そこから大いに外れて、どうにも重なり合えないような主張を激しくするグループを、多数派は「異端」と読んで区別している。つながれない箇所が根本的にところにあれば、それもやむを得ないようにも思われる。しかし、逆にその「異端」から見れば、正統派と称する者たちが誤っているのであり、「異端」ともなる。その結論は、人間が下すことは難しいかもしれない。
 
「聖書に書いてある」という、聖書なるものが客観的にひとつの真実を主張しているかのように言い放つことは控えるべきではないだろうか。「聖書にはそう書いてあるように私は読んだ」という意見は言えるだろう。もちろん、それはすべて主観的に読むことしかできない、という極論になるのではないだろう。私がそう読んだ、ということそのものが、神に諮られるのであり、神に量られるのである。それを神がどのように判断するのかを、私が決めることができないということである。私がそのように読んだということで、私は一定の信仰を示す。信仰によって、そのように読んでいる。ただ、私の信仰が、聖書はこうである、と決めつけることができない、というわけである。
 
だから、それが何らかの権威と共に、恰もそれのみが真実であるかのような高みから言い放つようなものであってはならないと思う。決めつけてしまえばそれは、実のところ「自分勝手な解釈」になってしまうのである。自分でこれのみが真理だと決めつけた、勝手な解釈の側にあるものなのである。権威もなく、聖書の知識もなく、だが聖書から受けた言葉を、自分のための神の言葉として胸に懐き、そこから小さな花を咲かせているような「信仰」を、「聖書に書いてある」と断ずる権威的な圧力で潰すような真似はしてはならないと思うのである。
 
むしろ、そこにその人の、神の前での「生き方」が現れてくる。聖書の中から神の言葉を自分のためのものとして聞き、受け止め、目の前のゴミを喜んで拾ったり、意地悪をした人に仕返しをせずにっこりと微笑んだりするような人が、だってイエスさまはわたしのために死んでくださったのだもの、と信じているならば、その「生き方」と「信仰」とはちゃんと合致している。その人は、神の命を受けて、生かされていると言えるに違いない。
 
ただ、注意しなければならない点はある。純朴な信仰の故に、それを何者かが操ろうとして、いわば悪用することがあるからである。ひとの信仰心を利用して、自分本位の目的のためにそのようなひとを利用してやろうとする者が、どこかにいる。カルト宗教と呼ばれているところでは、それが組織的に行われていることになるが、それは組織において行われるとは限らない。いつでもどこでも、サタンはひとの魂を奪おうと、聞こえない声で吠え猛っているのである。昨日まで福音を語っていた人が、悪い意味で豹変することは大いにありうる。しかも本人も周囲の人々も、気づかない間に。私たちは、蛇のように賢く、目を覚ましていなければならないのは確かである。
 
自分は聖書を詳しく知っている、と自認するが故に、純朴な信仰をちょっと見下しているような「信仰」が、聖書に書いてある生き方をしているようには、私はどうしても思えない。むしろ、「聖書にそう書いてあると私は読んでいる」「聖書はそう言っていると私は聞いている」という中で、「だから私は喜んでそのように生きている、生きていきたい」と歩むことが、キリスト者の原点なのではないだろうか。そこに重なる気持ちをもっている人々がいたら教会になる。自分の出会った神と、隣りにいる人の出会った神とが、きっと同じだというつながりは、理屈ではなく、聖霊が教えてくれることだろう。
 
つまりは、私たちは「穴だらけ」なのである。だとしても、その「穴だらけ」の姿なりに、響き合う霊というものがあって、その霊が「きっと同じだね」とつながりを与えるような「信仰」において、「穴だらけ」の存在なりに、喜んで神を礼拝し、神の生きた言葉を聞いてそれが命となり、同じ神への祈りがそこにあることで、互いにつながるというような形で、結びついた信頼の輪が、教会のすべてであるのではないだろうか。
 
依然としてうまく言えない故に、ここで述べていること自体が「穴だらけ」は、であるに過ぎないのだが、たどたどしく曖昧なままに表してみただけであるにしても、私はいま、そのように感じている。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります