「福音」と「生きる」のつなぎ方

2023年3月2日

「生きる」という言葉自体についても、いろいろ考察を深める意味があるだろうと思う。が、いまはそこには関わらないことにする。
 
ここに「福音」という言葉がある。日本語だと硬い感じもするが、聖書に使われているギリシア語からすると、「良い知らせ」という意味が見て明らかな語である。その「知らせ」という部分は、「天使」につながる語になっており、天使とは神からの「知らせ」を担う存在である。「メッセンジャー」と呼んでもよいほどである。
 
「福音」は、神の救いを示すニュースであってよいだろう。戦勝の報告を元来指していたとも言われるが、「マラソン」は、40kmほどの距離をその報告のために走り抜いて絶命した兵士がいたことに由来すると聞いている。その他、ローマ皇帝の即位のニュースなど、政治的に喜ばしい知らせの報告の際に使われていたらしい。
 
情報は、新聞からラジオ、テレビといった形で伝わり行き、いまやインターネットで個人的にライブ発信さえなされるようになった。それらの「知らせ」は、果たして「良い」ものであるだろうか。
 
さて、この「福音」と「生きる」という語をつなぐとき、私たちは日本語でどうつなぐであろうか。それが今回の話題である。
 
「福音で生きる」ということがあるかもしれない。まず私という主体があって、福音を道具的に扱い、それによって生きるような感覚が私にはある。
 
「福音と生きる」となったら、やはり主体は私であろうか。私は福音と共に生きてゆくのだ、という意志が感じられる。このとき福音は、「共に」であると同時に「友」であるようなふうにも思える。
 
「福音へ生きる」はどうだろうか。やはり私が、福音へ向けてひた走るような姿を想像してしまう。福音のほうから私にやってくるというよりも、私のほうが福音を目指していくようなイメージをもつ。もちろん悪いことではないが、そもそもの「福音」の意味からすると、少しばかり警戒すべきものであるかもしれない。
 
少し不自然だが「福音から生きる」というのも考えてみた。私が福音というものから何かを学ぶような姿勢を覚えた。あるいは、福音から何かが与えられてくる感じもするのかもしれない。私という主体が、少し薄れていくような感覚を伴うだろうか。
 
「福音が生きる」となると、今度は福音の方が主体となる。神からの良い知らせが働いているようなイメージをもつことができる。新約聖書の使徒言行録にしても、そこに描かれるのは弟子たちの物語であるように見えて、実のところ神が、あるいは聖霊が、人間を働かせている、という理解も可能である。このとき、福音が生きているような形だと捉えるのがよいであろう。やや擬人法のようにも見えるが、神の言葉が人を生かすという、救いの原点に沿ったものであるといえるかもしれない。
 
「福音を生きる」という言い方は、「日本語本来の言い方ではない」(『基礎日本語辞典』森田良行・角川学芸出版)そうである。だが、最近ちらほら見られる表現である。従来伝えられなかった感覚を、何か伝えたいという思いが潜んでいるのかもしれない。福音が聖書にある。その聖書にあるメッセージの上を辿るように、生きていきたいという願いが感じられないだろうか。パウロのように生きたい、可能ならばイエスのように生きたい、という思いが、その生き方を自分の生き方に重ねたいという気持ちを伝えるような気がするのである。
 
そして「福音に生きる」というのが、ひとつの到達点となる。「に」には、「生きる目的や手段・状態などを表す語」がくると、「生命を賭ける」という意を帯びることがあるのだという(上述の辞典)。それ一筋に生きる、という感覚が伝わってくる。私が生きる主体であると共に、神の福音をカノンとしてしか生きることができない、という原理を含んでいるように思われる。私もまた生きる当人であるが、基準は神の側に、キリストにあるのである。
 
正確に対応するわけではないが、この「に」は、ギリシア語以来格変化の「与格」が相当すると見なされている。その場合、「福音に」という表現は、「福音のものになる」感覚をも招くことができる。「福音のために」という説明は、きっと理解しやすいだろう。「福音に心を寄せて」いる様子を示すこともできる。「福音に関して」「福音によって」「福音という場において」「福音という時間の中で」など、様々なニュアンスを含みうる表現として、この「福音に生きる」がイメージされていくものと思われる。
 
最大のテーマは「福音に生きる」ことだ、と母教会の恩師ご夫妻から伝えられてきた。これまでの先生方の生き方について知る私にとって、そこで選ばれた「に」の一言が、重かったし、また、うれしかった。私もそうありたいと願わされたのは言うまでもない。
 
キリストと共に、あの十字架において自分は死んだ。だが、それは生きるためだった。神が、復活のキリストによって、自分に命を与えてくださった。その原点が、人と人との信仰をつなぐ。ここから、次の「生きる」ということについて、考察が始まることだろう。恐らく、その結論は、もうここに出ているかもしれないが。



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