要石なるキリスト

2023年2月16日

レントに入っている。教会では、イエスの十字架の死と復活へ眼差しを向ける。説教者が選んだのは、ぶどう園の農夫の話。ルカ20章を用いた。
 
ぶどう園を、主人が農夫たちに貸して旅に出る。その旅は長く、しばらく帰らない。主人が神を表していることは明白である。ぶどうの収穫のために、主人は僕を送る。しかし農夫たちはそれを袋だたきにした。主人は他の僕を送るが、同様であった。これは、神の言葉を伝える預言者たちを示しているはずである。そして農夫が、イスラエルの人々であることも、十分理解できる。
 
ついに主人は、愛する息子を使者として送る。だが、この跡取りを殺すことでぶどう園は自分たちのものになる、と農夫たちはほくそ笑んだ。そして息子を殺してしまうのである。もちろんこれは、神の独り子たるイエスを私たちに伝えることとなり、イエスがこれを語ったとするならば、イエス自身の運命を暗示するものにもなっている。
 
「そんなことがあってはなりません」と、これを聞いた民衆は口々に言う。なんという不条理なのだ、というように。確かに不条理である。確かに、そんなことがあってはならない。絶望的な話である。だが、イエスはこれをひとつの希望に転換する。
 
そこで持ち出されたのが、詩編の言葉である。

118:22 家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。
118:23 これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。
 
さて、説教たるもの、「聖書解説」や「聖書講演会」とは本質的に違う、というのが、私の基本的理解である。自分を措いて事を論ずるべからず、ということである。自分を無条件に自ら正義と決めない、ということである。これは、心ある説教者にとっては常識である。だが、そういうことしか語れない者が現実に説教者として大きな顔をしているという現状がある限り、そのABCは幾度でも繰り返し言明しなければならない。そうでなければ、歪んだ信仰を正義の御旗に掲げて、人と世界を滅ぼす方向に暴走する虞すらあるからである。
 
この農夫の中に、自分の姿を見出すことができるのかどうか。ここでは、それが大切な点であった。もちろんその説教者は、その姿勢を示した。その通りである。キリストを外に締め出す、それが私たちではないのか。自分の姿の、どこが農夫と違うと言えるのであろうか。それを問い直すのと問い直さないのとでは、雲泥の違いがある。問い直した上で、イエスを見上げるのである。問い直した経験の上に、イエスの救いを知るのである。
 
説教者は、ここから教会というものへと目を向けてゆく。気をつけなければならないのは、「教会」という語の定義である。これをいま組織化された宗教法人の教会と同一視すると、勘違いが起こる。主に呼ばれ、イエスの名を帯びて信仰を共にする人々の魂の方面に、この語を用いるのでなければならない。
 
注目したのは、先の詩編とイエスの引用の中にある「隅の親石」である。これは土に埋められた礎石ではない。なぜならば、イエスはこの引用に続けて、次のように言っている。
 
20:18 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。
 
その石は、人の上に落ちるのである。説教者はこれを口で説明したが、もしご存じない方がいらしたら、もしかすると想像しづらかったかもしれない。
 
エルサレムのような中東の町は、城壁で囲んで身を守ることが多いであろう。内外の出入りのためには門が必要であり、厳重に管理されている。その通路は、上側がアーチ型になっている。トムとジェリーでジェリーの巣穴への通路をイメージすると形がお分かりだろうと思う。その内側を、つまりアーチ状に石が組まれているが、両側からせせり立ったように組まれたものが、中央上部の石により、互いの力がぶつかり、支えられるようになっている。その中央の石が、要石であり、親石なのである。
 
もちろん、この親石というのが、イエスのことであるわけだが、私は、それを聞いて、ふと思った。この親石は、両側から延びたものを、どちらをも支える役割を果たしている。反発し合う力がこの石の存在によって、釣り合い保たれることとなる。人の世は、反対意見というものがある。反対勢力があり、啀み合い、争い合い、殺し合うことがある。だが、その間にイエスが挟まることによって、互いに相手を壊すことなく、従って全体が壊れることなく、安定が保たれる。いわば平和が保たれるということではないのだろうか、と。
 
イスラエルの平和は、何事もない長閑な平和を、意味するものではない、と言われる。それは、ひとたび暴れれば収拾がつかなくなるような力が潜む中で、神の力が働いてもたらされるような、力によりもたらされる平和である、というのである。それはひとつ間違えれば、力による平和ということが、戦いを起こす原因ともなるのだが、ここでの親石による平和は、同じく力が働きつつも、反発する力同士が打ち消し合うようなものとして生ずるものである。ひとつの平和の姿のように感じられないだろうか。
 
20:17 イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』
 
説教者は、「家を建てる」というところに目を向けていく。つまり「教会を建てる」ということである。キリストのからだとしての教会が、新たな神の家として建てられていく。神の民がそこにつながつてゆく。そこに連なる様々な人、それは必ずしも単純に和合するものではないかもしれない。だが、互いに逆の方を向く人間の性であっても、その中央に、親石たるキリストがいる。キリストが、壊れそうな人間の関係をも支えて静かなつりあいをつくりだす。
 
そのつりあいは、すべてのキリスト者が担っている。一人が欠けても、バランスは崩れるだろう。キリストの名を受けた誰もが、キリストのからだの大切な一つの石として、そこにある。キリストに用いられている。キリストに属する者ならば、誰ひとりとして、要らない者はない。役に立たないなどということはないのである。



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