遠い地震の報道に

2023年2月14日

トルコとシリアを中心とした大地震の被害は、空前の規模に上りつつある。各国から派遣された救助隊の努力が、誰かの救いになることを願うばかりである。
 
少数の例ではあるのだろうが、限界の時間を超えて救出された人の話も伝わってきていた。小さな子どもやその親が生き延びていたという知らせは、私たちが希望をもつべきであることを、改めて教えてくれる。
 
有り体かもしれないが、いわゆる「サマリア人の譬」が心に届く。「隣人になったのは誰か」とイエスは問うた。隣人は誰か、ではなかった。これから「なる」のであってよいのだ。西アジアまでは、距離でいえばここからは遠い。遠すぎる。だが、心が突き放すほどに遠いかどうかは、また別なのではないか。と言いつつも、現地の人々にとっては、その場に来て働いた人々こそが助けとなる。これでよい、という解答はないように思う。
 
汗を流している助け手のためにも、祈らざるをえない。しかし祈ったからと言って、それが私の免罪符になるわけではない。痛みをもちつつ、それでもただ祈る。祈れば祈るほど、自分は罪人だという思いに苛まれる。
 
そして、その祈りの先に、十字架の君がいる。



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