主の祈り

2023年2月13日

祈りについて。時折、説教で語られねばならない。だが、祈りとはそもそも何であるのか。案外難しい。単なるお願いではない、とよく言われる。賛美だ、という人がいる。神との交わりにほかならない、と説く人もいる。
 
キリスト者は、祈りについて、明確な定義を以て始めるものではないらしい。何分祈れとか、電車の中でも瞬間的に祈るとよいとか、祈りの生活のための知恵も語られることがある。教会の祈り会では、連祷などと言い、次々と祈りをリレーするようにして、しばしの間祈りの空間ができることがある。そもそも礼拝では、プログラムの一つとして祈りという項目があるし、牧師の説教も、祈りで始まり、祈りで結ばれるということもある。
 
祈りというものについて教えてください。弟子たちがイエスに願い、それに対してイエスが「こう祈れ」と教えた文言が、福音書に記録されている。「主の祈り」である。
 
「主の祈り」は「主」が付く。これを付けた時点で、それはただの「祈り」ではなくなる。私たちの目の前には、聖書の「主」しか見えないのだ。そもそも「主の祈り」という言葉自体、聖書の中には見出されない。聖書を信じた者たちが、聖書の言葉の他に、そのように呼んで、この祈りを受け継いだのだ。
 
この「受け継いだ」ということが、この説教者の語ることの、大切な軸となった。そのため、聖書を研究する人々が、これはイエスに由来するとは言えないだろう、などと説を唱えることについては、不問にした。「受け継いだ」というところに、イエス自身の教えが含まれるはずだ、と捉えるのである。だが、それ自身が、ひとつの信仰であろう。そして「主」と冠する仲間における、共通理解であるだろう。学問として何がどうあろうと、当人が主と出会った出来事の証しであり、神の前に死んだ経験をもつ者の真実であるのだろう。
 
彼らは皆、女たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて、ひたすら祈りをしていた。(使徒1:14)
 
イエスの昇天の後、エルサレムに戻った弟子たちは、女性たちを含めて、集まって「ひたすら祈りをしていた」と記されている。説教者は、そのギリシア語原文に着目した。それを敷衍してみると、「女たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと」は、文末にまとめられていることを挙げよう。原文の語順を考慮に入れてその表現を辿ると、「皆はしっかり続けていた、心を合わせて、その祈りに」と並んでいて、先の人々のことがつながっていくのである。定冠詞の付いた「その祈りに」に、説教者は注目し、指摘した。その「祈り」とは、「ああ、あの祈りだな」と周知の祈りだったというのである。それは何の祈りなのか。それこそ、「主の祈り」であったに違いない。「主の祈り」は、受け継がれた祈りだったのである。
 
ゲストの説教者であった。大学の教員であり、宗教主事であるという。以前私が原稿関係でお世話になった雑誌編集長の従兄弟である方だが、ふだん大学生を相手に聖書を語っているせいもあってか、口調やリズムも聞きやすく、話を多岐に拡がらせずにまとまった話し方をしてくれたように思えた。
 
ただ、学生に対して話す時によく用いる言い方なのであろう、時間的な理由からか、煩雑なことを一つひとつ挙げないが、といったような言い方が何度かあった。逆に、教会で説教を聞き慣れた信徒であれば必要ないような基本的な事柄については、十分時間をとって説明を施すという場面さえあった。聖書を知らない大学生に対して話すような雰囲気を感じたのは、私だけだろうか。
 
もちろん、すべてがそうだというわけではない。やはり礼拝説教というものは、一定の前提や知識がある中でこそ、語ることがすべて伝わるようにできているものなのであろう。ただ、本当にすべてであるかどうか、それは分からない。いくら聖書を勉強していても、同じ語られた言葉が出来事にならない場合は多々あることだろう。しかしまた、言葉が出来事となる伝わり方が成ったときには、それはさらに受け継がれ、伝えられていくことになる。
 
祈りは、ひとつには個人的な営みであり、一人ひとりの魂が神と向き合い、神と交流するものであるかもしれない。けれども、そのように祈ることそのものは、受け継がれていくものであるに違いない。記された「主の祈り」は、ひとつのモデルであり、学ぶべきことなのであろう。すべてが自己流であるというのは、少しばかり怪しい。キリスト者は、聖書から確かに学ぶことがある。「主の祈り」は、私の中で、今日、どのような息吹を感じさせてくれることだろうか。また、愉しみが与えられたような気がした。



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