ちょっとずつの嘘

2023年2月12日

ちょっとずつ、嘘を入れていく。
 
それが故意であるならば、邪悪なものである。時にそれは、大風呂敷であることがある。しかし逆説として人が認めるようになると、それが真実となっていく。全体がひとつの嘘を共同幻想として掲げて権力を有するようになる。ナチス・ドイツがその好例であると言えようか。
 
そういうタイプの嘘を流す者は、確かにいる。そしてマスコミのような拡声器をうまく導いて、世間を、だんだんそれが真実であるかのように騙していく、というのはよくあることだ。故意に嘘でもデマでも、大声で叫ぶという手法をとる者もいるように思われる。
 
他方、それが確信犯であるならば、無邪気である。自分で正しいと思い込んで、それを叫ぶわけだから、ある意味で無邪気そのものなのだ。が、それはまた怖い。その言葉を耳にする者を集団幻想に招き入れ、その内部において当然それが真理ではないか、というような世界を築いていくことがあるのだ。無邪気だから構わない、としておくことは、時に危険なのである。
 
宗教団体は、しばしばその類いに数えられることがあるだろう。狐憑きのような状態になった人に、家族がついに従い、しだいに村へ拡がっていった、という図式が、「新宗教」ではしばしば起こった。使徒言行録の聖霊降臨においても、そうした説明がなされ得るかもしれない。
 
だが、宗教となると、一定の教義が整えられていく。ある程度の理論的バックボーンが築かれ、ただの憑依だけではないような論理と組織が構築されるようになると、ただの幻想だとは言えなくなってくるであろう。ただ、その組織の一員として上に立ちたいという欲望を懐く者が、時に故意に、時に無邪気に、嘘で自分を固めていく、ということが起こると、組織自体がおかしな方向に走っていくことにもなりかねない。私たちは、近年そうした宗教組織の暴走をも目撃しているはずだ。
 
どうしてそのような嘘でずれていくのか。これをキリスト教という領域で捉えてみよう。異端と呼ばれるグループも、そうした事例であると説明できるかもしれないが、正統派の中にも、そうした嘘によりずれていくケースは大いにありうると考えられるであろう。それはしばしば無邪気になされる。つまり本人は、自分が外からの声に従っているのではなく、自分の欲望から思い込んでいるということに、気づかないでいるという状態である。多分に本人が、たんに信仰の核心を知らない、ということからそうした事態になるのであって、それは確かに無邪気であるかもしれないが、迷惑千万である。
 
そして、周囲もそれを助長することになる。つまり、その分かっていなさを、周囲の者も分かっていないという場合に、燎原の火の如く、思い込みの世界が拡がっていく虞があるというわけだ。少しずつずらされていった、となると周囲の者は被害者である。だが、たとえずらされていたとしても、本人の嘘を見抜けずに、組織を共にダメにしていくという意味では、全体主義の場合と同じように、しっかり加害者にもなっていることになる。
 
私たちの身近なところでは、ちょっとずつ、嘘が入ってくる。それで、その嘘に流されていくことに気づきにくい。あからさまな嘘ならば、少し知識のある人はとりあえず抵抗する。それにも取り込まれていく危険はあるが、気づく者は一定数現われる。しかし、ちょっとずつ忍び込む嘘は、それを許すのが愛だというような徳への欲求にも助けられて、気づかないうちに遠くに波に流されるように、信仰も組織も蝕んでしまう恐ろしさを含んでいる。
 
礼拝説教の中で、その説教者は、ちょくちょく無知をさらけ出していないだろうか。事実に反することを、思い込みから真実であるかのように言い放っていないだろうか。誤った観念を植え付けるような、情報操作とも言えるようなことを、意図的ではないにしても、無邪気にやっていないだろうか。
 
誤解なさらないように。これは、キリストを実は知らないで説教をする者の場合を言っている。多くの説教者は、神と出会い、自分の外からの霊を受けて、神からの言葉を伝えている。しかし、それのない者は、自分がただ学び、自分の中から絞り出した知識だけしか語れない。そこに嘘が含まれていて、ずらしが生じてしまうことを、目を覚まして警戒していなければならない、ということである。ちょっとずつだと、気づきにくいし、気づいても見過ごしてしまうからである。そして、自分もまた、その嘘に加担していくことになる。
 
ちょっとずつの嘘が、実は恐ろしい。



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