エレベーターの笑顔

2023年2月6日

マンションのエレベーターで降りていたある日。途中の階で止まり、ドアのガラスの向こうに、上半身を屈めた女性の姿が見えた。ドアが開くと、その若い母親の足元に、小さなひとがいた。
 
真っ白なフード付きのオーバーを着た女の子である。2歳になるかならないかという辺りであろうか。早く乗せなければ、という配慮からか、母親が支えて、歩かされるような形でエレベーターに乗り込んできた。
 
女の子は、私の顔を見上げて、にこにこしている。キラキラした目が可愛い。母親が、「こんにちは、って」と子どもに促す。それを言葉にするのも難しいようなふうではあったが、口を少し開けて笑ったような表情をしている。私の方が声を出して、「こんにちは」と言った。その子は、もっと笑顔になった。
 
ずっとそのまま私の顔を見上げているものだから、こちらも目を逸らさず、女の子を見つめることにした。すると大人としては何か言わねば、という気持ちになるものであって、「寒くないかな」「どこに行くの」など、他愛もない言葉を向ける。理解されるのかどうかも分からない。ただ、笑顔でこちらを見ている。
 
1階に着き、軽く抱えられるようにして、女の子は外に出された。母親も何かしら話しかけて、とても明るい、よい感じであった。
 
きっと、このような毎日が、その子を育んでいるのだろう。毎日が、こうした優しい、温かな言葉と空気で包まれて生きていく。子どもにとり、なんと恵まれたことだろう。ぎすぎすした雰囲気の中で、緊張した常態しか知らないままに、すべての経験をそういうものとして受け止めていかざるを得ない子もいるのだ。そういう家庭もあるだろうし、紛争や混乱の生活の中で、それを強いられている人々もいる。子どもは、そのすべてを経験として、身に着けるべき感情や思想の基盤としなければならない。
 
世界は信じるに値するものだ。それを覚えて、子どもは育てられるべきものだ、とする報告がある。エリクソンの「基本的信頼感」という言葉でご記憶の方もいらっしゃることだろう。認知も言語も、そうした安心感の中で得られることが望ましいには違いない。だがそれにもまして、心一般が、正にそうなのであろう。
 
白いオーバーの子は、寒い外に出ると、片手を母親がしっかりと握りしめた形で、トコトコと歩いて行く。もちろん、車道側を母親が歩く。何か話しかけながら、楽しげに前へ進む。その先にあるものは、冷たい風ばかりでないはずだ、と、私は目を細めて見送るのだった。



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